復活節第四主日

初めとしての福音

聖書箇所:マルコによる福音書1章1-8節

1神の子イエス・キリストの福音の初め。2預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの道を準備させよう。3荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、4洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。5ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。6ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。7彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。8わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」

説教要約

キリストのご生涯は決して長いものではありませんでした。人の目から見れば、幸せよりも、悲しみのほうが多かったように思われます。そして、その最後は、十字架におかかりになって死なれる、という有り様でした。
十字架は最も重い犯罪を犯した者が罰せられるところです。キリストは罪がありませんでしたが十字架につけられました。これ以上不条理なことはありません。
おかしなことで,こんなむごいことがあるのかと思います。しかし、これがこの世です。

キリストは、その時、この世を恨みも、憎みもしませんでした。執り成してくださったのでした。十字架がその執り成しでありました。天の父なる神にご自身を献げて、私たちの贖いとなってくださったのであります。
福音書は、主イエス・キリストのご生涯を綴っています。マルコによる福音書は、ことにその最後のおよそ3年間のことを伝えています。一般に「公生涯」と呼んでいますが、主イエスがガリラヤの村や町々で神の国の福音を宣べ伝え始められて、弟子達を集め、教え、人々を癒される、そして、エルサレムに向かい、ついに十字架におかかりになる、また、お甦りになるのですが、その間の数年間のことを「公生涯」と呼んでおり、マルコ福音書はその公生涯について記します。しかも、そのうちの3分の1を十字架におかかりになるエルサレムでの最後の一週間の出来事に費やしています。

今日は1節「神の子イエス・キリストの福音の初め」と記されるこの御言葉に心を留めたいと思います。

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復活節第三主日

復活の主との食事

聖書箇所:ヨハネによる福音書21章1−14節

1その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。2シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。3シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。4既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。5イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。6イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。7イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。8ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。9さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。10イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。11シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。 12 イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。13イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。14イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。

説教要約:

(説教全文をここでご覧になれます)

ティベリアス湖、すなわちガリラヤ湖の湖畔で、復活の主が弟子たちと共に食卓を囲んだとということが記されています。そして、ここには、主の食卓、聖餐式の意味の一端が重ねて記憶されています。その食卓は、主イエスによって用意されました。すでに準備が整えられていました。けれども、主は、その食卓に弟子たちが捕ってきた魚を加えるようにと、言われたのでした。主イエスによって備えられた食卓の恵みに、弟子たちの奉仕の果実も加えられています。
無くてならぬものを、主ご自身が備えていてくださり、そこに、弟子たちの奉仕の果実が、喜びをもって加えられるのです。感謝に満ちた、喜ばしい食卓が主によってひらかれています。

網の中に集められた魚の数は153匹。一説によると、その数は、当時知られていた魚のすべての種類の数と言われます。すなわち、全種類の魚が、網の中に集められたのでした。これは、主の食卓の交わりに、世界中のすべての民が集められることになる。主が喜ばしい食卓にすべての民を招いてくださっている、ということを象徴的に示しているようです。

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復活節第二主日

不信の信

聖書箇所:マルコによる福音書16章9-20節

9 イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。10 マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。11しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。12その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現された。13この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった。14その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。15それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。

説教要旨

9節に、「イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアにご自身を現された。」と記されています。12節にも、田舎のほうへ歩いて行く途中の二人の弟子に、主イエスはご自身を現された、と書かれており、14節では、11人の弟子たちにご自身を現されます。このように復活の主イエスが人々にご自身を現されたということが強調されており、その三つの場面が綴られています。

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復活節第一主日

 復活

聖書箇所:ヨハネによる福音書20章 1-10 節

1 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。2 そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」3 そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。4 二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。5 身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。6 続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。7 イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。8 それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。9 イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。10 それから、この弟子たちは家に帰って行った。

 説教要旨

(説教全文はここでご覧になれます)

主のご復活の日の出来事です。マグダラのマリアが、日曜日の朝早く、まだ暗い内に、主イエスの墓に急ぎました。とろこが、墓に行って見ると、入り口を塞いでいた大きな石が脇に取りのけられているのを見ました。それは、主のご復活を示すしるしでありました。けれども、マリアは不安に襲われたのであります。墓が荒らされ、主のご遺体が失われてしまった、と思ったのでした。そして、死は、その最も大きな石でありましょう。人類の歴史も、また、同じです。
その大きな石が、主のご復活によって取り除かれたのです。マリアは見ましたが、しかし、悟ることはできなかったのです。不安に襲われたのでした。急いで、シモン・ペトロと主が愛しておられた弟子のところへ走って行ってそのことを伝えました。ペトロとヨハネも墓へと急ぎます。彼らも不安になったのです。ペトロは墓に入って、亜麻布が置いてあるのを見、また、主イエスの頭を包んでいた覆いが、亜麻布と同じ所にはなく、離れたところに丸めてあるのを見ました。きれいにたたまれ、きちっと丸められていたのです。墓は、荒らされたのではありませんでした。もうひとりの弟子も中に入り、その様子を見ました。そして、信じた、と記されています。これが、主イエスが復活された、その日の最初の様子であったというのです。どうして、マリアも、そして、ペトロとヨハネも、その時、まだ、主のご復活を、受けとめることができなかったのでしょうか。復活の主ご自身が、近づき、語りかけ、私たちに出会ってくださらなければ、誰一人、主のご復活を受けとめることはできないのです。天の父なる神が、主イエスを甦らされたのです。そして、神ご自身がわたしたちにそのことをお示しくださらなければ、わたしたちはその恵みを受けとめることはできません。「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」とあります。ルカ福音書に記されるエマオ途上の二人の弟子のことを思い起こさせます。二人の弟子は、自分たちに近づき共に歩かれるお方が主であることに気が付きません。ただ、このお方は、道々、聖書の言葉を説き明してくださったのでした。その時、二人の弟子の心は燃えていました。そして、宿屋について食卓を囲みその方がパンをさいてくださりぶどう酒を分けてくださった時、主であることを悟ったのでした。
あのエマオ途上の二人の弟子のように、復活の主ご自身が私たちの歩みに近づいて来て下さり、聖書の言葉を、わたくしたちのために説き明かしてくださる。そうして、新しい命に生きる者となる。神の国での甦りの希望に支えられることになります。これが、ヨハネ福音書が記す、復活の日の朝、そのはじめの様子であります。

復活前第一主日

十字架

聖書箇所: ルカによる福音書 23章 39ー49 節

39十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」40すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。41我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」42そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。43するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。44既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。45太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。46イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。47百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。48見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。

説教要約:

十字架の主のお姿には、「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿も」ありません。旧約聖書に預言されていたように、人々は主を口々にののしり、あざ笑いました。ある者は、「もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」と言い、他の者は、「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と言う。一緒に十字架にかかっていた犯罪人までもが、「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と、あざけったようです。

それにしても、十字架には、どんなに激しい苦痛が伴うことでしょうか。言語に絶する、と言われます。手足を引き伸ばして釘を打たれ、体全身の重みが、そこにかかります。釘を打たれたあたりは、神経が張りめぐらされているところですから、痛みは激しく、耐え難いことだったでありましょう。ことに、釘のあたっているところは、肉が腫れてたちまち腐り始めると言われます。激しい頭痛も伴います。体力の衰えるにつれて、苦痛の度合いが高まます。発熱にひどい渇きが伴います。直射日光が、心身の苦悩を助長します。

主イエスは、しかし、これらすべての苦しみの中にあって、ご自分を十字架にかけた人たち、あざ笑う者たちのために、執り成してくださったのでした。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」

そして、主のお姿に畏敬の念をいだいた一人の犯罪人に向かっては、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」と仰せになりました。預言者イザヤの言葉のように、その打たれた傷によって、また、身に帯びた病によって、主はお癒しくださるのであります。

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