復活節第五主日

道を備えよ

聖書箇所:マルコによる福音書1章1-8節

1神の子イエス・キリストの福音の初め。2預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの道を準備させよう。3荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、4洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。5ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。6ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。7彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。8わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」

関連聖書箇所:

旧約聖書 出エジプト記23章20-21章
20見よ、わたしはあなたの前に使いを遣わして、あなたを道で守らせ、わたしの備えた場所に導かせる。21あなたは彼に心を留め、その声に聞き従い、彼に逆らってはならない。彼はあなたたちの背きを赦さないであろう。彼はわたしの名を帯びているからである。

旧約聖書 マラキ書3章1節
1見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は/突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者/見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる。

旧約聖書 イザヤ書40章3節
3呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。

新約聖書 ルカによる福音書15章11節以下

 

説教要約:

(説教全文をここでご覧になれます)

「神の子イエス・キリストの福音の初め。」と記して、マルコによる福音書は、すぐに、旧約聖書の言葉を伝え、洗礼者ヨハネのことを紹介しています。

旧約聖書の言葉は預言者イザヤのものとされていますが、実際は、上記の関連聖書箇所が綴り合わされたものです。イエスさまの時代にこのように旧約聖書の大切な言葉が綴られ、集められて、来るべき方、来るべき救いについて示す言葉集ができていたようなのです。それは、ただイザヤの書というだけではなくて旧約聖書全体が語りかけていること、いわばその要約のような言葉として受けとめられていたということです。

マルコ福音書はこれを伝えて、そのことがここに実現する。今、ここに成就するという喜びを告げています。

[荒れ野で呼ぶ声ヨハネ]

「そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。」と書かれています。

罪の赦し、悔い改め、そして、洗礼。この三つの言葉によってヨハネが語り、為した一つのことが伝えられています。為したこととは人々に洗礼を授けたということです。それで洗礼者ヨハネと呼ばれます。その洗礼は、悔い改めのしるしであり、罪の赦しを取り次ぐものでした。

[悔い改めとは]

人々は、悔い改めのためにヨハネのもとに来ました。悔い改めとは、神に帰るということです。

ときどき、「悔い改め」を誤解をして受けとめている人に出会います。後悔し、悔いて、自分で自分を立て直すことと思い定めているのです。しかし、それは違います。
後悔して自分を改める、そういうことはわたしたちの生活の中に確かにあることです。それができるならばどんなに良いことでしょうか。しかし、しばしばそうはいかない。立て直すことができない。自分の為したことをただただ嘆くしかない。そのような時もあります。
悔い改めとは、後悔とは違います。たとえ、後悔して、その結果、自分を改め、立て直すことが出来たとしても、それを「悔い改め」とは呼びません。
悔い改めとは、方向を変えることです。心の向きを変えることです。神に帰ることです。神が、救い主が、わたくしどものところに来てくださった。その恵みのもとに身を寄せることです。

[悔い改めを示した放蕩息子]

放蕩息子の譬え話(ルカ福音書15章11以下)を思い起こします。弟息子は本心に立ち帰りました。父を思い出したのです。そして、父の下に帰ろうと心に決めました。自分のしてきたことを悔やんでいたことでしょう。悔やみつつ、向きを変えて、父のところに帰っていくのです。
しかし、父の下には、この息子が考えていたこと以上のこと、思いがけないことが待ち受けていました。父親は来る日も来る日も息子の帰るの待っていたのでした。そして、息子が帰ってくるのを見つけると、駆け寄って迎え、最上の着物を与えて、喜びの宴を開いた、というのです。
これは、赦しを伝える譬え話です。そして、父の下に帰ることを悔い改めとして示しています。この時、弟息子は悔い改めたから、赦しにあずかったのではありません。父のもとで知った赦しは、彼が考えていたこと、思い及んだこと以上のことでした。身に余ることで、思いがけないことでした。駆け寄って来て迎える、そのような思いがけない父親の赦しのもとに自分を見いだしました。それこそが悔い改めです。

[むすび]

「罪のゆるしを得させる悔い改めの洗礼」をヨハネが宣べ伝えた、とマルコ福音書は伝えています。
罪の赦しが神によって備えられ、その赦しにあずかるようにと神が私たちを招いていていてくださる。それで、わたしたちは悔い改めて主のもとに立ち帰り、洗礼にあずかりました。
マルコ福音書は、私たちのあずかった洗礼のことを、ヨハネの言葉とともに、思いおこさせているように思われます。そして、その恵みの深きことを教え、救いにあずかって歩む、歩みへと誘うのです。