復活節第六主日

プレリュード

聖書箇所:マルコによる福音書1章1-11 節

1神の子イエス・キリストの福音の初め。2預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの道を準備させよう。3荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、4洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。5ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。6ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。7彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。8わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」9そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。10水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。11すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

説教要約

 マルコ福音書は冒頭部で洗礼者ヨハネのことを書き記しています。
7、8節をごらんください。こう記されています。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼(バプテスマ)を授けたが、その方は聖霊で洗礼(バプテスマ)をお授けになる。」

 ヨハネという人は、イエス・キリストがおいでになる、その前奏曲、プレリュードの役割をはたした人物ですが、ここでは、自分のことを語っています。自分自身のことを語ってキリストを指し示しています。

[わたしよりも優れた方」

 ヨハネは、キリストを「わたしよりも優れた方」と呼び、自分は「かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。」と語っています。
昔、客を家に迎えるとき、奴隷が客人の足を洗って家に迎えたと言われています。ヨハネは、自分がキリストに仕える者であることを言い表していますが、奴隷にも値しないと語っています。
いたずらに自分を卑下しているのではありません。ヨハネはひねくれ者ではありません。そうではなくて、後から来られる方、来てくださる方に圧倒されて、その恵みに打たれているのです。

[水の洗礼、聖霊のバプテスマ]

 ヨハネは、さらに自分の後に来られる方が、何をなさるのかを具体的に示しています。「わたしは水であなたたちに洗礼(バプテスマ)を授けたが、その方は聖霊で洗礼(バプテスマ)をお授けになる。」水のバプテスマ、聖霊のバプテスマが対比されています。

 ある人は、ヨハネは厳格な人物で、悔い改めのバプテスマを宣べ伝え、父親のような厳しい神を示した。それに比べて、イエスさまはそうではない、慈愛に満ちた、母親のような神をお示しになり、海よりもひろい赦しのバプテスマ(洗礼)を宣べ伝えたのである、と説明しています。何か親しみを覚える説明です。しかし、そのような対比が、ここで語られているのではなさそうでえす。

 あるいは、キリスト教会には「聖霊のパブテスマ」を強調し、水で洗礼を受けてもそれはほんの入り口で、その後、聖霊ご自身が洗礼を授けてくださる。そのことが重要だと主張する人々がおられます。信仰の深まり、祈りにおける何かの体験や経験が、その背後にあるのだと思います。
そういたしますと、ヨハネの水の洗礼というのは、牧師の授ける洗礼も同じで、それは形式的なものにすぎない、と受け止めておられるようです。

 しかし、そうではなさそうです。
ここで大切なポイントは、ヨハネがどのようにキリストにお仕えしているのかということです。ヨハネは水で洗礼を授けましたが、それはしかし、キリストに仕える働きで、その洗礼を真実なものとなさるのは、実はキリストご自身でいらっしゃる。そのことを語っています。。

 ヨハネが授ける洗礼、それは、私たちが与っている水の洗礼を指し示しているように思われますが、その洗礼を真実なものとなさるのは、ヨハネではなく、言うまでもないことですが、牧師でもなく、主イエスであられます。
聖霊のバプテスマとは、洗礼が、父なる神と御子イエス・キリストによって遣わされた聖霊、神御自身の力をもってなされる、父と子と聖霊の名によるのだということです。それが、水のバプテスマの真相であって、ヨハネはそのことに仕えるているのです。

[キリストの力]

 それでは、キリストご自身が手を置かれる、その力とは何でしょうか。
このすぐ後に、イエスさまがヨハネからヨルダン川で洗礼を受けられたということが記されています。ここにキリストの力が示されているように思われます。

 イエスさまがヨハネからバプテスマをお受けになったということを聞くと、何か奇妙な感じを受けます。ヨハネは主イエスのことを「わたしよりも優れた方。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。」と語っているのに、その立場が逆転しているように見えるからです。
確かに、不思議なことです。ヨハネは罪人を招きました。終わりの時が近付いたから、悔い改めるようようにと呼びかけていたのです。人々は罪の赦しのために、悔い改めのバプテスマをヨハネから受けたのでした。そのバプテスマを受ける人々の列にイエスさまもおられて、ヨハネからバプテスマをお受けになった。
イエスさまも、罪にまみれている、罪人だったのでしょうか。赦しを受ける必要があったのでしょうか。そうではありません。ペトロの手紙一2章22節に「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。」と記されていますが、罪のない方であります。
それで、洗礼を受ける人々の列に身を置いておらえるイエスさまのお姿に、誰もが驚くのではないかと思います。

 しかし、ここに、深い意味がありました。この不思議な光景の中にキリストの力が現されていたのです。罪のないお方が、ご自分を罪人の立場まで低くし、私たちとまったく同じ立場に立ってくださったということです。
私たちと同じようになってくださるために、ヨハネからバプテスマをお受けになりました。それが、主イエスの受洗の深い意味です。
すなわち、ヨハネがキリストにお仕えしたというのなら、キリストはもっと深く、わたしたちのために仕えてくださったのです。それこそ、キリストの力でありました。

 水の洗礼、その中に、キリストのお姿が刻まれました。

[むすび]

 洗礼者ヨハネは「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼(バプテスマ)を授けたが、その方は聖霊で洗礼(バプテスマ)をお授けになる。」と語りました。そして、キリストを指し示したのでし。
これは、ヨハネの「My life is my messege」です。私たちも、神の恵みを最後まで心にとどめて、「主我を愛す。我弱くとも恐れはあらじ。」と歌って、ヨハネと共にプレリュードを奏でたい願います。