復活節第七主日

教会の香り

聖書箇所:コリントの信徒への手紙二2章1-11節

1 そこでわたしは、そちらに行くことで再びあなたがたを悲しませるようなことはすまい、と決心しました。2もしあなたがたを悲しませるとすれば、わたしが悲しませる人以外のいったいだれが、わたしを喜ばせてくれるでしょう。3あのようなことを書いたのは、そちらに行って、喜ばせてもらえるはずの人たちから悲しい思いをさせられたくなかったからです。わたしの喜びはあなたがたすべての喜びでもあると、あなたがた一同について確信しているからです。4わたしは、悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書きました。あなたがたを悲しませるためではなく、わたしがあなたがたに対してあふれるほど抱いている愛を知ってもらうためでした。5悲しみの原因となった人がいれば、その人はわたしを悲しませたのではなく、大げさな表現は控えますが、あなたがたすべてをある程度悲しませたのです。6その人には、多数の者から受けたあの罰で十分です。7むしろ、あなたがたは、その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して、力づけるべきです。8そこで、ぜひともその人を愛するようにしてください。9わたしが前に手紙を書いたのも、あなたがたが万事について従順であるかどうかを試すためでした。10あなたがたが何かのことで赦す相手は、わたしも赦します。わたしが何かのことで人を赦したとすれば、それは、キリストの前であなたがたのために赦したのです。11わたしたちがそうするのは、サタンにつけ込まれないためです。サタンのやり口は心得ているからです。

説教要約:

(説教全文をここでご覧になれます)

コリントの信徒への手紙二2章1節から11節までを、読んでいただきました。ここには、私たちが聖餐にあずかるに際して、心に留めるべき大切なことが記されています。キリストにある赦しに、深く結ばれていくということです。

[ある人の過去と戒規]

5節をごらんください。あるひとりの人をめぐって、コリントの教会に向かって、パウロが語りかけています。「悲しみの原因になった人がいれば、その人はわたしを悲しませたのではなく、大げさな表現は控えますが、あなたがたすべてをある程度悲しませたのです。」

その人はパウロを悲しませました。キリストの恵みを台無しにするような振る舞いに生きるようになってしまったのでした。

多くの聖書の研究者が、ここに記されていることは第一の手紙の5章に書かれている出来事と関連があるのではないかと言っています。
それによると、教会の中に「父親の妻と結ばれて、一緒に生活をしていた人がいた」ということが書かれています。母親とみだらな関係をもっているということでしょうか、あるいは、父親の再婚相手と関係を結んでいるということでしょうか。
当時、コリントの町は、倫理的な混乱があり、みだらな関係に生きる人々が少なくなかったようです。教会の中にも、そのような風潮が入り込んできてしまっていたようです。そして、そのことを誇るような人までいる。そんな有り様でした。

パウロはその人を戒めたのでした。ところが、本人は一向に意に介しない。
教会はというと、そのことを悲しむわけではなく、その人と一緒に、なんのためらいもなく、聖餐の交わりに与るような始末でした。

パウロは強い言葉で注意を促し、キリストの恵みに応えて生きようとする謙遜、従順を失ってしまっている人を聖餐の交わりから排除するようにと命じました。今日、私たちが言うところの「戒規」です。
聖餐の交わりから、ある人を排除する、教会員であっても聖餐を受けるのを停止する。
それを戒規と呼びます。戒めるための規定、戒規と申します。その人を教会が裁くということです。
しかし、それは、そうすることによって、その人を忌み嫌うためではありません。その人に悔い改めを促し、心新たに、信仰をもってキリストの恵みにあずかるようにと、招くためです。

裁かないことは、赦すこととは違います。悔い改めることを願って、裁くのであります。恵みに身を向け、恵みに生きるためです。そのために「戒規」を行います。
それで、教会はパウロの指示に従って、その人に戒規を適用したようです。

[聖餐と赦し]

その人が、聖餐の交わりに戻ってくることができたのかどうか、はっきりは分かりません。いずれにしても、その人の、信仰の歩みのことを案じて、使徒パウロはコリントの教会に書き記しています。

7節、8節をご覧ください。「むしろ、あなたがたは、その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して、力づけるべきです。そこで、ぜひともその人を愛するようにしてください。」と記されています。

聖餐には赦しが備えられています。その聖餐の交わりに戻ってくるように、戻ってきたら、その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、その人を赦し、力づけ、愛し受け入れるように、と勧めています。赦しのもとに自分を見いだすこと、また、人を赦すことは決して容易なことではないからです。

ハンセン氏病の療養所で、医師として働き続けた神谷美恵子さんという方がおられました。「生きがいについて」という代表的な書物の中で、生きがいをうばい去るものについて触れておられます。生きる力を失ってしまっている人々のことを紹介しながら、生きがいを奪うものとして、老いること、病にあうこと、愛する者に死なれること、自ら死に直面することなどのことを記して、その他に、罪の記憶ということ取り上げておられるのです。罪の記憶というものが、生きていこうとする力を奪う。

ある人の告白の言葉が紹介されています。こんな言葉です。
「この頃、私はさびしいばかりです。特に自分の心の傷については悲観的です。どんな理由があったにしろ思うたびに悲しい。・・・親友にすら誰にも言えない悲しみは、泥んこの中から這い出して来て、しみついた匂いをひそかに洗い流そうとするように空しい。・・・やはり自分がそのことをしたということは、悲しいのです。何度苦しい夢を見たことか知れません。自分の腕を切ったのでしょうか。眺めては泣いている夢を見ました。皆に指さされる夢、いえ、夢でなく、実際にその思いを、感ずるのです。何かにつけて思いがそこに行くと、もう一歩も動けない弱さを痛切に味わっているような有り様です。・・・前歴ということは打ち消せないのですね、どうしても」。

誰ももうそのことを知らず、法律の上では既に清算され、もはや告白の必要もないのに自分と自分との間で心がうづき続ける。赦されないという思いの言葉を聞き続ける。罪の記憶です。その罪の記憶が生きる力を奪うのです。

自分の腕を切った夢。その腕で何かしらの罪を犯したのでしょう。しかし、それを眺めては泣いている。
腕を切るというのは、本当に自分を裁いてほしいということでしょう。そうしなければ、自分で自分を赦せないのです。そして、自分を赦せないので、生きる力を失っている。

このようなことは、私たちも理解できないことではありません。使徒パウロは、しかし、聖餐には罪の赦しの力がある。それで、その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦しに深く結ばれて生きて行くように。共に聖餐にあずかって、自分もその人を赦し、力づけるように、その人を愛するようにと、コリントの教会に語りかけています。

ある人が、聖餐式のぶどう酒は辛口のものがいいと申しました。それは、キリストの十字架の血だからです。神がキリストをとおして与えてくださる赦しと恵みは、決して甘ったるいものではない。ゆるしの背後には、キリストが十字架で受けとめてくださった神の厳粛な「さばき」の事実がある。

キリストが、私たちの全ての罪を背負って、十字架におかかりくださり、私たちのために、とりなしてくださったのでした。キリストが、あの腕に代わって、いわば、ご自身の腕を切ってくださったのです。神はそのようにして、人間の罪を裁き、罪を処分なさる。その痛さ、つらさが、神のゆるしに伴っていました。そのことを心に刻むためには、ぶどう酒は辛口が良い、というのです。

赦されるということは、神がもう、私の罪を、私に対して数えることをしないで、私を赦し受け入れてくださったということです。だからこそ、その赦しには、私たちが、罪の中にありながら、罪に従って生きるのではなくて、神の恵みに従って生きるようになる力、慰めと励ましが備えられているのであります。

「ゆるし」という言葉は、恵みという言葉から生まれています。恵みは、聖書のギリシャ語でカリスです。そして、ここで用いられている「ゆるし」はカリゾマイです。カリス・恵みに伴っていること、それは「ゆるし」である、ということでありましょう。これから聖餐にあずかります。キリストの肉と血をいただきます。神が私たちの罪を赦してくださった、そのことを受け止めさせていただきたいと願います。