聖霊降臨節第一主日

洗礼と誘惑

聖書箇所:マルコによる福音書第1章9-13 節

9そのころ、イエスはガリラヤのナザレから出てきて、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。10そして、水の中から上がられるとすぐ、天が裂けて、聖霊がはとのように自分に下って来るのを、ごらんになった。11すると天から声があった、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。12それからすぐに、御霊がイエスを荒野に追いやった。13イエスは四十日のあいだ荒野にいて、サタンの試みにあわれた。そして獣もそこにいたが、御使たちはイエスに仕えていた。

説教要約:

(説教全文をここでご覧になれます)

主がヨハネから洗礼をお受けになった時、天が裂けて、聖霊が鳩のようにくだって来た、と聖書は伝えています。

「天が裂けた」とは、「今や、だんだんと天が引き裂かれ、開かれていく」ということです。
ちょうど、低く頭上を覆っていた黒雲が、二つに割れて、みるみるうちに、割れ目が広がり、青空がのぞき、ついには、高きところから、日の光が射し込んでくる。
そのような光景を思い浮かばせます。

旧約聖書イザヤ書64章に「どうか、天を裂いて降ってください。御前に山々が揺れ動くように。」と祈る、祈りの言葉があります。
当時、イスラエルの人々の歩みはまことに暗澹(あんたん)たるものでした。暗く、黒雲に閉ざされ、天を見ることがない。神の御業が見えない。それで、神よ、どうぞ今天を開いて、閉ざされている雲を追い払って、山々が揺れ動くようなみわざを行ってください、と預言者は祈ったのでした。
この祈りの言葉は、長い間、人々の心に留まりつづけたようです。
この言葉どおりに、今、天が裂かれつつある。神が御手を働かされた。天はまさに引き裂かれていく・・・

「聖霊が鳩のように降ってこられた」とは、神が天地をお造りになったときに、神の霊が激しく動いて、地に神の御業を生み出したように、神の霊が今新しく動き始め、主イエスのところに降って来られた。神が新しい時を始められた。新しい創造、新しい歴史の始まりを告げています。

その時、天が裂け、聖霊が降ってきただけではありませんでした。天からの声が聞こえたと記されています。父なる神の声です。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」・・・
「愛する子」とは、「独り子」ということです。神の子、たった独りの子ども。父親の愛情を一心に受け、その豊かな賜物をすべて受け継ぎ、父の心を実現する者。それが、「愛する子」です。神の御旨が、この「愛する子」によってあらわされる。天からの声は、そう告げました。

この天からの声についてですが、代々の教会は、その意味を受け止めるために、旧約聖書の三つの言葉に心をとめるようにと教えてきました。大切なことですので、ご紹介したいと思います。

一つは、創世記22章です。創世記22章というのは、信仰の父アブラハムが、その子イサクをささげるためにモリヤの山へと上っていく、というあの有名な物語です。年老いるまで子どもがなく、ようやく神の約束が実現してイサクが与えられた。ところが、神はアブラハムにこのイサクを捧げることをお求めになりました。
そこを読んでまいりますと、神はアブラハムにイサクのことを「あなたの子」「あなたのひとり子」と何度もおっしゃっています。
そのささげものとされるイサクと、主イエスのお姿とが重なるというのです。
父なる神は愛する子主イエスを、差しだすことを心に定め、子なる神は、その御心をうけて御自分をお捧げになる、というのです。

二つ目は、詩編第2編です。この詩編は、イスラエルに王が立てられるときに歌われました。激しいところがある歌です。
幼子のようでありながら、まことに力に溢れた王が、神のご命令、その意志によって神の子として立てられる。地上の国々は騒ぎ立ち、構えて結束し、主なる神に逆らう。しかし、神はそれを笑い、あざけり、御心に適う王をお立てになる。そして、その王を「わたしの子」とお呼びになる。そのことが力強い言葉で歌われます。それで、この詩編は、後にメシア、救い主を歌う歌として理解されるようになりました。
神のお立てになる王、それが主イエスであられる。

三つ目は、イザヤ書42章です。こう記されています。「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す。」
僕の歌、あるいは、苦難の僕の歌と呼ばれるいくつかの歌がイザヤ書の後半に記されているのですが、その中の1節です。この僕の歌の中で、最も有名な箇所は、イザヤ書53章です。主イエスのお姿をそのまま描いているかのように、苦しみを受け、罪人のひとりに数えられ、死にいたる僕の姿が歌われます。
「しかし見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。
わたしが選び、喜びを迎える者を。
彼の上にわたしの霊は置かれ
彼は国々の裁きを導き出す。
彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。
傷ついた葦を折ることなく、
暗くなってゆく灯心を消すことなく
裁きを導き出して、確かなものとする。」
この苦難の僕が、42章においては、「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す。」と歌われるのです。

これらの三つの旧約聖書の言葉が、天からの声を理解する大切な言葉として、覚えられております。
ご自身を神にささげる者、神から王として君臨することを許された者、しかしその支配は、罪人が滅ぼされないで生かされるために、自ら僕となって人々に仕えてくださるお方。これらの聖書の言葉に導かれて、代々の教会は賛美と感謝とを主にささげてきました。

さて、マルコによる福音書は、洗礼の記事を記すとすぐに、荒れ野で主イエスが試み、誘惑をお受けになったということを伝えています。
ここには、40日40夜に及ぶ断食のことや、空腹の主に向かってサタンが放った三つの質問、試みについては記されていません。
非常に短く、記しています。

主イエスの上に降った聖霊が、主を荒れ野へと送り出しました。「送り出す」というのは、「追いやる」「強いてそうした」という意味です。聖霊によって、神の強い意志がそこに働いていることを伝えています。
神はどうしても、主をそこにお遣わしになるのです。

ところで、「荒れ野」。「荒れ野」とはどこでしょうか。イスラエルには石のゴロゴロとした荒れ野が多くあるそうです。いや、ほとんど荒れ野だと言ってもよいほどだと言います。しかし、聖書はその場所を特定していませんし、関心を示していません。
ここで「荒れ野」と言っているのは、人の住まない、命のない、不毛の世界のことです。それだけではなく、黄泉の世界の近く、神に敵する勢力、悪霊の支配するところを意味しています。
旧約聖書のレビ記に「アザゼルのための山羊」という話が出てきます。昔、イスラエルでは、人々のすべての罪を、くじに当たった山羊に全部背負わせて荒れ野に送り出しました。捨てたのです。アザゼルとは、その罪を引き取る鬼神、鬼です。荒れ野とは、このような鬼、悪霊の住むところと考えられていました。
そして、「荒れ野」とは、ただ単に場所を示すだけではなくて、人間についても用いられます。もともと、「捨てる」という意味がありまして、見捨てられた人、顧みられない人のことをも言い表します。
人の住まない、住んでいてもそれは捨てられたような人間、顧みられない人の場所、命のない、不毛の世界、それが、荒れ野です。

ある人が、はっきりとこう言っています。荒れ野とはこの世のことである。この世こそ、荒れ野である。ここには、わたしたちを神から離れさせる危険が絶えず存在している。
それは、どこか遠くの、見知らぬ所ではなく、わたしたちの住処、わたしたちの身近な所に違いありません。

神は荒れ野へ、主イエスを追いやったのでした。そして、主はそこにおとどまりになりました。サタンの試み、誘惑をお受けになりました。40日間一日も休み無く、毎日毎日誘惑をお受けになった。しかし、決して、それに屈することはなかった。勝利したとは、ここでははっきりと記されてはいませんが、屈することなく、試みる者と相対峙し続けられた。
そして、その間、野獣が一緒におり、天使たちが仕えていた、というのです。
これはイザヤ書の言葉を思い起こさせます。平和の主、エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その枝から若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる」と語り始める言葉です。そして、次のようなことが起こると預言者イザヤは語りました。
「狼は子羊と共に宿り
豹は子山羊と共に伏す。
子牛は若獅子と共に育ち
小さい子供がそれらを導く。
牛も熊も共に草をはみ、
その子らは共に伏し
獅子も牛もひとしく干し草を食らう。
乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ
幼子は蝮の巣に手を入れる。
ここでは、人と獣とが和らいでいる。共に生きている。神の国、神のご支配のもとにある姿を伝える豊かな聖書のイメージです。
主イエスの荒れ野における獣との生活は、このイザヤの言葉を実現しておられる、荒れ野に神さまのご支配が現された。そうマルコによる福音書は伝えています。

主イエスは、ヨハネのもとで洗礼を受けて、私たち罪人の立場に立ってくださいました。そして、荒れ野では、サタンの誘惑に屈することなく、神のご支配と平和とを現してくださったのでした。

ところで、この時、それらのことを見聞きした人は誰もいませんでした。天からの声を聞いたのも、主イエスだけでした。
マルコ福音書は、これらのことを、人は誰も理解することはなかった。隠されており、密かなこととして、伝えています。
狐につままれたような感じもしますが、なぜ、福音書はこのように記し、伝えるのでしょうか。
このような大事なことなのに、主イエスの他は、誰も知らなくても良かったのでしょうか。

そうではありません。そうではなくて、この大切な出来事は、最初、主イエスにだけ現された、誰もその時、何が起こったかを理解できなかったのは、それほど深く、高い神秘であり、気高い神の啓示であって、人はただちに理解し、受けとることができるようなことではない、ということです。
マルコ福音書は、このお方の言葉とお働き、そのお姿を書き記してまいりますが、主イエスのもとに集められ、福音書に記される、主のお言葉を聞き、そのお姿に見(まみ)えて、人はこの秘められた、気高き神の御心と、神のご支配とに、開かれていく。そう、伝えているのであります。

今日は、聖霊降臨日です。エルサレムの二階座敷に集まっていた弟子たちに聖霊が降りました。
そして、弟子たちは、いろいろな国の言葉で、父なる神と御子イエス・キリストをほめたたえ、その福音を語り始めたのでした。
ヨハネから洗礼をお受けになったときに、主イエスに降った聖霊、そして、主イエスを荒れ野に導いた聖霊が、弟子たちのところにも降りました。
マルコ福音書は、聖霊の祝福のもとで、これから書き記す主の物語を読みすすみながら、礼拝の日々を旅するようにと私たちを招いています。
主のお言葉、主の振る舞い、主のお姿に、注意深く聞いて、聞きつつ、歩んでごらんなさい。神の愛する独り子があなたがたと共におられ、あなたがたは、まことに神を畏れかしこむ者であり、神の国があなた方のうちに開かれる。そう呼びかけ、私たちを招いているのであります。