聖霊降臨節第2主日 (三位一体主日)

イエスの使信

聖書箇所:マルコによる福音書1章14-15節

14 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、15「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。

説教要約

(説教全文をここでご覧になれます)
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。 これは、主イエス・キリストが福音を宣べ伝えられてお語りになった最初のお言葉です。最初の言葉というだけではなく、主イエスのみ教えを代表する言葉です。
「時は満ちた」
神のご計画が万端整って、いよいよその時となったということです。
聖書のギリシャ語では「時」を言い表すのに、二つの言葉があります。ひとつは「クロノス」という言葉です。英語のクロック「時計」という言葉の元になっている言葉です。時間のある一点や、一区切りのことを言い表します。私たちがごく普通に、時とか時間と言っているのは、このクロノスです。過ぎゆくものとして、私たちが自覚している時の流れです。
しかし、もう一つの言葉があります。「カイロス」という言葉です。これは、ある特別な意味を持っている時や時間のことを言い表します。潮が満ちて海が満潮になるように、押し寄せてくる、満ち満ちる時、それがカイロスです。
「時が満ちた」。主のお言葉はこのカイロスという言葉が用いられています。
わたしたちは、時は過ぎ行くもの、と考えます。けれども、そうではありません。時は、神のご計画の中にあります。時は神さまによって創造され、神さまの御手の中にある、聖書はそう語るのです。神の御手の中にある時、その時を、わたしたちは生かされて生きるのであります。
「神の国は近づいた」
「神の国」。マタイ福音書を読みますと、「天国」と記されていますが、神のご支配ということです。ギリシャ語でバシレイヤと言います。「神の御手」と言い換えることもできます。「神の御手がおかれる」、神の義と愛と平和によるご支配、恵み深い神の御手によるご支配、それが神の国です。
「近づいた」
「来た」「到来した」と訳してもよいようです。ある英語の聖書は、「has come」と翻訳しています。寒い日々を過ごしていたとき、ふっと少し暖かな風を感じる。春の気配に気づき、春が来た、と喜ぶように、神の国は来た、と主は仰せになりました。
主は「神の国が近づいた」神が私たちに近づいて来てくださる、と仰せになりました。そこでは、まだ、あるいは、いまだに、という留保がありますが、しかし、神の国とわたしたちの間には、切っても切れない、深い関わりが生まれているのです。
ある人が、こう言い換えています。「神の国が近づいた」すなわち、主イエスさまがおいでになることによって、神様の御手がいよいよあなた方のところにさしのべられ、神様の恵みの光があなたがたのところに射し込んできたのである。」
「悔い改めよ」
悔い改めとは、神様のほうに心を向けなおして、その語られる救いの喜びの知らせを信じる、と言うことです。
射し込んできた恵みの光、その光の方に向きをかえる。主は、その光を思う存分浴びなさい。神さまの御手がおかれたのだから、その御手のもとに自分を置きなさい。そうお語りになっておられるのです。
「福音を信じなさい」
福音、喜びのおとずれを信じなさいと仰せになりました。 もうここで、福音とは何か、ということをお話する必要はないと思います。ただ、マルコによる福音書が、いつ、どこで、この言葉をお語りになったのかを伝える言葉に心を留めたいと思います。そして、福音、喜びのおとずれ、を受けとめたいと思います。
14節をご覧ください。「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えた。」そう書かれています。
三つのことが記憶されています。
一つは、「ヨハネが捕らえられた後」ということです。
これは、ヨハネの時が終わった。そして、イエスさまの時が来たということを伝えていますが、それ以上のことを語っています。
バプテスマのヨハネは、後に記されることでありますが、時の王ヘロデが神の律法にそむき、兄弟の妻を奪ったことを激しく非難したために、捕らえられ、、ついには首を切られて殺されてしまいます。
ヘロデ王は決してヨハネを軽蔑するような人ではなかったと思います。かえってヨハネのような人を尊敬さえしていたふしがあります。しかし、神の国の到来を告げ、悔い改めを迫るヨハネを殺さざるを得ないのであります。
そういう出来事が生々しく伝えられる、思い起こさせる。その時に、主は神の国の福音を宣べ伝えられた、というのです。
二つ目のことは、「捕らえられた」という言葉です。この言葉は、しょっちゅう登場する言葉ではありません。この箇所の外には、ただ一つ、特別な出来事を伝える時に、マルコ福音書では用いられます。それは、主イエス・キリストが捕らえられ、十字架に引き渡される時です。
マルコ福音書を繰り返し読む者は、この「捕らえられた」という言葉からすぐに、主の十字架のことを思い浮べます。マルコ福音書は、はっきりと、私たちの贖いのためにご自身をささげられた十字架のことを思い起こさせているのです。
ヨハネと主イエス・キリストとを重ねて、ここで福音を宣べ伝える方は十字架にご自分をお渡しになった方である、ということを、この最初のところから示しています。
三つ目のことは、「主はガリラヤに行かれた」ということです。
 ある聖書は「ガリラヤへ来られた」と訳しています。行ったというのではなくて、来られた。どちらも、翻訳としては間違いではありません。しかし、「来られた」というのは、味わい深い訳だと思います。
ガリラヤは、わたしに従ってきなさいとのお召しに従った弟子たちの出身地です。弟子たちの生活の場所、それがガリラヤです。ただ単なる地名ではありません。主に従う者たちの生活の場所、そういう象徴的な意味を持っています。
さらに、マルコ福音書は、最後のところで、すなわち、主のご復活を伝える箇所で、復活の主が、ガリラヤで弟子たちにお会いすると仰せになったと伝えています。
そうだとすれば、ガリラヤとは、主に従う者たちの生活の場所、そのただ中、そして、そこは復活の主にまみえる場所のことになります。
ヨハネ福音書の中に、復活物語ですが、恐ろしくて弟子たちが戸を閉め切ってある家の中にいて、そこに復活の主が入って来られ、「平安があるように」と仰せになった、ということを伝えています。同じように、ガリラヤに、復活の主がきてくださる。
ですから、イエスさまは「来られた」。このわたしたちのところに主は来てくださった。そう読みとって、「ガリラヤに来られた」と翻訳する聖書があるのだと思います。
ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えたのでした。そして、言われました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」