聖霊降臨節第3主日

漁師を招くイエス

聖書箇所:マルコによる福音書第1章16-20節

 16イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。17イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。18二人はすぐに網を捨てて従った。19また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、20すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。

説教要約

(説教全文をここでご覧になれます)
主イエスは福音を宣べ伝え始め、すぐに、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。」と仰って、ガリラヤ湖の漁師たちを弟子とした、と記されていました。
弟子となるということは、自分の生きる立場を変えて、主イエスの門下生となり、その道に学び、歩んでいくということであります。
[いっさいを捨てて従う]
シモンとはペトロのことです。アンデレはその兄弟。「網を打つ」とは、岸から「と網」で漁をすることを意味するそうです。舟を持たず、兄弟二人だけで漁をしていた様子から、決して豊かな漁師ではなかったと考えられます。彼らはその網を捨てて、主イエスに従いました。
ヤコブとその兄弟ヨハネは父ゼベダイとその雇人たちとともに舟の中で網を繕っていました。雇人がいるというのですから、彼らは貧しい漁師ではなかったということが分かります。しかし、彼らも、父と雇い人とを舟に残して主イエスに従いました。
わたしたちが、この聖書の記事を読んで、一番気になるのは、彼らが「すぐに、網を捨て、舟や父親を置いて」すなわち、「いっさいを捨てて」主に従っていった、といとも簡単に書かれていることではないか、と思います。
聖書を読み進んで気がつくことですが、ペトロは修行僧が出家をするのと同じように、一切を捨てたのではない、ということです。
ペトロはすでに、この時、妻帯しておりました。妻がおりました。妻の家もあり、そのお母さんも一緒におりました。家族の面倒を見ていたのです。そして、その点については、この後も何ら変わることはなかったのです。
しかし、変わったことがありました。それは、主イエスを自分の家にお迎えするようになった。主がペトロの家においでになるようになったということです。主は喜んでペトロの家で憩われました。
このすぐ後に、姑が高い熱を出した時、イエスさまに来ていただいて癒やしていただいたという記事が記されています。そして、その日、イエスさまと一緒にこの家庭は食卓を囲んだのです。主をお迎えするようになった、それは大きな目に見える変化です。
ペトロは確かに網を捨てました。それは、しかし、すべてを投げ捨てて出家したということではありません。主と共に戻って来ているのです。
こう言い換えることができましょう。主が、宿題をかかえ、応用問題を解くべき、わたしたちのただ中に、来てくださるようになった。来てくださっている。わたしたちは、ペトロと同じように、その主の後について行く者となった、ということです。
[人間をとる漁師]
主が、これらの人たちをお呼びになったのは、「人間をとる漁師」とするためでした。
不思議な言い方で、物騒な感じもするかもしれませんが、特別な使命を持って、人々を神の国に導くものとして選ばれたということを示しています。
実は、この「人間ととる漁師」という言葉を、主イエスは、新しい意味をこれに与えて、お用いになっておられます。イスラエルの人々が知っている、この言葉は、主イエスの意味とは、いささか違っていました。
それは、神さまがお裁きになるために、隠れ潜んでいる罪人を捜し出し、神の前に連れ出してしまわれる、そのような意味で用いられていました。
しかし、主イエスは、この「漁師が人をとる」という言葉を、裁かれるべき罪人が救くいを与えられ、神の国において見いだされるために、引き出すという、全く反対の意味あいをもって、これをお用いになり、お語りになったのであります。
失われているものに目を留めてくださる主イエスは、失われたものを捜し出してお救いくださるというのです。その救いの前にもはや隠れていることはできない。そのためにペトロたちは「人間をとる漁師になる」のだ、と言われました。福音、喜びの訪れです。
[弟子とされる]
聖書の研究者は、この弟子たちの召命の物語は、新鮮な響きを奏でている、と言います。様子が、他とは、いささか違うのです。
当時、ユダヤ教の教師ラビたちのもとにも弟子がおりました。ところが、ラビは率先して自分の弟子を召し出すということはしなかったそうです。弟子としてもらいたいという人が、自分の先生を探して、弟子入りをしたのです。それが普通のことで、先生のほうから弟子を探しに行くというようなことは無かった。
ところが、主イエスの場合は違います。ペトロたちは、海辺で漁をしたり、網を繕っていただけでした。ここで、ペトロたちをして弟子たらしめるのは、ただ、主イエスの呼びかけであり、働きかけでありました。こともあろうに、主が彼らのところに赴き、彼らを捕らえてしまわれたのです。
主イエスは、ペトロに悔改めを迫っているわけではありませんし、また信仰とは何かを教えているのでもない。あるいは、主イエスはペトロの信仰を問題にしているわけでもありません。彼に信仰のあるやなしやを見て、弟子にするか否かを決めておられるのでもありません。
この福音書が語るのは、ペトロがただのガリラヤの漁師であった時に、もっとはっきり言うと彼が信仰をもつ以前に、ペテロそのものを捕らえてしまわれた、ということです。
「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」。この言葉によって、彼らを捕らえてしまわれたのです。
「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」彼らは、この主のお言葉によって、自分の生きる立場を変えて、網を捨てて、主イエスの門下生となり、その道に学び、歩んでいくものとされました。