救いの旅路を養う糧
聖書箇所:イザヤ書55章1-5節
1渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め 価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。2なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い 飢えを満たさぬもののために労するのか。わたしに聞き従えば 良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。3耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ。わたしはあなたたちととこしえの契約を結ぶ。ダビデに約束した真実の慈しみのゆえに。4見よ かつてわたしは彼を立てて諸国民への証人とし 諸国民の指導者、統治者とした。5今、あなたは知らなかった国に呼びかける。あなたを知らなかった国は あなたのもとに馳せ参じるであろう。あなたの神である主 あなたに輝きを与えられる イスラエルの聖なる神のゆえに。
聖書箇所:マタイによる福音書6章11節
11わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
説教要約
(説教全文をここでご覧になれます)
後ほど、聖餐にあずかりますが、今日はマタイ福音書6章11節を読んでいただきました。
主がこのように祈りなさいとお教えくださった「主の祈り」の一節です。
「わたしたちに必要な糧を今日与えてください。」
この祈りの言葉を心にとめ、聖餐に与りたいと思います。
「糧」とは、文字通りには「パン」です。しかし、ただパンがあれば良いというのではなくて、それは、私たちの命を支え、力を与えるものでなければなりません。
そして、命が支えられる、生きる力が与えられるというだけではなくて、神の国への旅路を歩む力、永遠の命に結ぶ糧のことが、ここに覚えられているはずであります。
この祈りの言葉について、幾つかのことを心に留めたいと思います。
第一のことですが、私たちの日毎の糧は、聖なるもの、神さまのものでる、ということです。
ある人が、主の祈りの中に、「必要な糧、日毎の食物」のことが取り上げられていることに、いささか違和感をいだいたようで。なぜだろうかと自問自答したというのです。そして、次のような答えを得たのでした。
それは、「『食物』は聖いもの」、だから主は祈るようにとお教えになったのだ」ということでした。
聖いと言うのは、神のものだということです。ハッとする言葉ではないかと思います。
心にとめたい二番目のことです。
それは、私たちの日々の生活に神さまの眼差しが注がれているということです。
「必要な糧」とあります。実は、この言葉は長い間、その意味がはっきりとは分からない、謎の言葉でしたが、家庭の主婦が、その日の生活、家族のために食事の準備をする。毎日毎日、そういう生活が続く。その一日の心遣いの中で、必要なものはこれこれだとチェックする、そこに用いられていた言葉であったということが分かりました。