2015年1月18日 公現後第2主日礼拝

聖書箇所    マルコによる福音書5章1-10節 

1 一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。2 イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た。3 この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。4 これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。5 彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。6 イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、7大声で叫んだ。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」8イエスが、「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたからである。9そこで、イエスが、「名は何というのか」とお尋ねになると、「名はレギオン。大勢だから」と言った。10そして、自分たちをこの地方から追い出さないようにと、イエスにしきりに願った。

説教   汚れとイエス 説教全文をここでもご覧になれます

今日はいささか戸惑いを覚える聖書の物語を読んでいただきました。戸惑うというのは、この物語から何を学んでよいのか、戸惑うということであります。聖書の研究者の中にも、この物語は何ら教訓的な内容もなく異教的なものによって飾られていると言って軽んじる人もいる程であります。しかしながら、驚くべきことですが、マルコによる福音書は、珍しくこの箇所では多くのスペースを割いています。大概の場合、短く書くのがマルコによる福音書の特色なのでありますが、この箇所では違っているのであります。

例えば、マタイによる福音書は、今日読んでいただいた箇所に該当するところは、たった2節を費やしているだけであります(マタイによる福音書8章28、29節)。で、いささか戸惑いを覚えるこの箇所をマルコによる福音書は丁寧に記してことであります。その丁寧に記していることが何か、それは、主イエスキリストは、汚れたもの、神様のご支配から離れて遠くにいると思われている人々のところに入って行かれたということであります。今日はそのことを心にとめて、神様を賛美したいと思います。

ガリラヤ湖の向こう岸、ゲラサ人の地方というのは、実はそれがどこなのか、正確にはわかりませんが、はっきりしているのは異邦人の土地、異教徒の住む場所だったということであります。マルコによる福音書によりますと、イエス様がそのような異教徒の土地に入られたのはこの時が初めてのことであります。すなわちイエス様はイスラエルの領地の境を踏み越えて当時の信仰者の考えによれば、汚れているとみなされ、できればそんなところは避けたいし、行きたくもないと思うような場所に入って行かれたのであります。ある人は、この物語の中でユダヤ教の律法に照らして清いものは一つも登場しない、主イエスキリストは何一つ清いものに出会っておられない、出会うのは汚れたものばかりである、と言っていますが、そのとおりであります。今日は読みませんでしたがこの物語の後半には、そこに豚の大群がいたということが書かれています。豚は汚れた動物の代表であります。汚れているというのは、宗教的な意味で、であります。豚は大変清潔好きだそうでありますから、汚れているなどというと失礼になると思いますが、ユダヤ教の宗教上のこととしては、そう考えられていたのであります。その理由は、イスラエルの周辺諸国で、この豚が、宗教的な礼拝、祭事に使われていたことによるのだそうであります。偶像的、異教的な神々を礼拝する時に用いられていたので、そのことをユダヤの人々は卑下して、汚れたものとしていたのです。で、今日でもイスラエルの人々は豚を食べないようであります。豚を飼う仕事はしないのだそうであります。ところがこの地方では、大変たくさんの豚が飼育されていた、この地域が異邦人、異教徒の土地であることの証拠であります。イエス様は豚の大群、豚を飼う人々に出会います。

あるいはまた2節に墓地のことが書かれています。墓場も汚れていると考えられていました。で、この墓場っていうのは、山の中腹に横穴を掘って造られたり、地下の洞窟などを利用して造られていたようであります。光のあたらない薄暗い場所であります。マタイによる福音書23章27節に「あなたがたは、白く塗った墓に似ている」という主イエスの言葉が記されていますが、そのお言葉は、律法学者やファリサイびとに向けられた言葉で、彼の人たちは、墓を汚れたものと考えており、墓に触れることのないようにと、これは墓であるという印をつけて、遠くから見分けれるようにしていたのだそうであります。で、イエス様は少し皮肉をこめまして、宗教的に外側ばかり飾って、自分の正しさや清さを誇っている律法学者やファリサイびとたちは、白く塗られた墓に似ているとおっしゃったわけであります。墓は汚れているもの、と考えられていました。しかし、何と言っても汚れているものといえば、汚れた霊と汚れた霊に取り憑かれた人でありましょう。主イエスは夜、嵐に遭遇して、遭難の危険まで冒して、ガリラヤ湖を渡って、ゲラサ人という汚れたものたちのところに行ったのは、この男に会われるためだったのであります。で、この人は墓場から出てきたと書かれています。今、申しましたように墓は汚れたものでありますが、古代オリエントでは、悪魔や汚れた霊にとって、理想的な場所と見られていたようであります。そしてその墓穴は社会から追放された人たち、例えば、重い皮膚病に罹った人たち、悪霊に取り憑かれたもの、逃亡者など、当時の社会ではのけ者にされた人たちの隠れ場となってもいました。これらの人々は、命ではなく、死が支配する場所で生きなければならない、命の向こう側、虚無と死の支配の下であります。イエス様は、ここで弟子たちと船から降りるとすぐに追放された人たちの一人が墓穴から現れ出てイエス様のところに来たというのであります。この人について書かれていることは、まことに恐ろしい姿であります。3節から5節にかけて詳しく描かれています。人々は、彼を鎖や足枷で押さえつけようとしたようですが、単に暴れるからというだけではなく、むしろ人々は彼がこちら側に出てくるのを嫌った、恐れたからでありましょう。しかしこの人は鎖を引きちぎり足枷を砕いた、とあります。それは彼が自由への欲求を持っていると示しているのかも知れません。確かにこの人もまた、非常に歪んだ姿でありますが、自由を求めます。そして、鎖を引きちぎり、足枷を砕いて自由になります。しかし、そのようにして得られた自由の中で、彼はいよいよ悲惨にならざるを得ない。依然として墓場を徘徊するしかない、また自分を傷つけ破壊する、そうすることのほかに自分を表すことができない。鎖を引きちぎっても死の奴隷から解き放たれることはない。汚れた霊に取り憑かれている、悲惨な姿がここに描かれています。で汚れた霊はこの人を支配している、その力は並外れたもので、異様なほど強いものだということを物語っています。レギオンとは、おおぜい、という意味だと9節に書かれていますが、元々はラテン語でありまして、本来はローマの軍隊の一つの単位を表す言葉です。日本の軍隊用語でいえば、1師団ということになります。当時のローマ軍の1師団は、兵力5,000から6,000であったと言われています。そしてこの5,000から6,000の兵隊を持つ師団が26あって、当時のローマの軍隊の中核をなしていたそうであります。屈強なローマの軍勢、その力になぞらえるような力が、たった一人のこの男を捉えていたと語っているのであります。恐ろしいほどの破壊的な力をもったこの人、汚れた霊に取り憑かれたこの人に、誰が好き好んで会おうとするでありましょうか? しかし、イエスキリストはこのひとりの人に会うためにこられました。彼を再び、鎖や足枷で縛り付けるためではなく、本当に自由にするためであります。自分を傷つけ、破壊する自由のためではなく、汚れた霊から解き放って、健やかな自由を与えるためでありました。主イエスキリストは汚れたもの、神様のご支配から離れて遠くにいると思われている人々のところに、はいって行かれる方です。しかも、力を持って、恵深い神様のご支配を表すために来られた、ということマルコによる福音書は、このようにして告げるのであります。私たちは時々、キリストは汚れたものとは関わりを持たれないのだ、と一方的に考える時があります。あるいは汚れた霊に取り憑かれていた人のように、大きな重荷を背負っている時や、また、困難の中にあるときに、主はともにおられないと考えてしまうのですが、この聖書の物語はそうではなくて、主イエスキリストは来られて、汚れたものたちの中に、神のご支配を表される、そう伝えています。で、そのことをマルコによる福音書は丁寧に書きしるしているのであります。そしてここには、イエス様と汚れた霊に取り憑かれた男との会話が記されています。彼は主イエスを遠くに見ると走り寄ってひれ伏し、大声でいと高き神の子イエス、構わないでくれ、後生だから、苦しめないでほしいと叫んだということであります。この言葉は、この人自身の言葉であるのか、彼にとりついている悪霊の言葉なのかは、はっきりとはわからない、入り混じった叫びです。この人自身の言葉であるとすれば、次のことを示しています。彼は苦しみの中にありますが、そして、その苦しみから解き放されたいと願っているのですが、彼は苦しみの真の姿を知らないでいる、ということです。神が自分を苦しめている、そう思っているということであります。しかしながらこの言葉は、この人を捉えている、汚れた霊の言葉でもあります。そう致しますと、悪例は主イエスを恐れている、ということになります。聖書は汚れた霊、人間を悲しみの中に、罪の中に捉えている力、それがどんなに大きく、強いものであっても、実は神の子、キリストを恐れている、キリストが近づいてくることを最も嫌がっているのだということを伝えています。ある時、しばらく前のことでありますが、聖書を学ぶ会がありましてこの箇所を読んで、語り合ったことがあります。その時にある人が、ここに記されている汚れた霊、レギオンというのは滑稽だということをおっしゃいました。なぜかと申しますと、レギオンというのはローマの一師団の名前ですから5000〜6000の軍隊です。ところがこの後の13節を読みますと、汚れた霊が逃げ込んだのが2000匹あまりの豚に過ぎなかったことがわかります。すなわち汚れた霊は、レギオンと言ってはいますが、それは見栄を張っていて、精一杯イエス様の前に見栄を張っている、実際は2,000に過ぎないのです。見栄をはる、っていうのは、自分の弱さを知っている人がすることです。弱さを隠したいのであります。でその方は、それで、自分をレギオンと言っている汚れた霊は滑稽だと、そういう風に思ったというのであります。聖書は汚れた霊の深刻な影響を語りますが、しかし、ユーモアを持って、その弱さを描き出している、その滑稽な姿を描いているのかもしれません。殊にキリストの前にあっては、力なきものなのである、そのことを語ろうとしています。

構わないでくれ、後生だから、という言葉がありますが、元の言葉をそのまま日本語に移し替えますと、私は私、貴方は貴方、となります。私は私、貴方は貴方、まあ、それで、構わなでくれ、後生だから、という翻訳になっているのであります。以前に用いておりました口語訳聖書は、「あなたと私は、何の関わりがありますか」と訳しておりました。ここに汚れた霊と、それに捉えられた人間の本質が描かれているように思います。ある人が、このことはを次のように言い換えています。主イエスという誠の具体的な芸術、そこに来ておられる神様に対して、私は神様なしにやっていくのだから、“かまわないでください”と言ったということではないか。これは、現代人の姿でもある。そう述べているのであります。

マルコによる福音書はここに、罪という問題を描き出しているかもしれません。何か奇妙な、恐ろしい一人一人の人間の姿を描きながら、実は私たちを捉えている罪というものが、どんなに恐ろしいものか、神なくしてやっていける、神様はなくても生きていけると言い張る、そう信じ込む人間が、実はどんなに恐ろしい力の虜になっているのか、しかも、実に滑稽な姿をしている、そう語っているかのようであります。この物語、主イエスキリストの力を示します。汚れた霊、レギオンを追いやる力を持っておられることを伝えています。で、私たちは、この物語を読んで、次のことをこころに止めて、神様の御名を賛美したい、と思うのです。それは、汚れたもののところに近づいて来られたイエスは、私は私、あなたはあなた、神なくしてやっていける、神様はなくても生きていけると言い張る人間のために、ご自身に力を結局は十字架においてお示しになった、ということであります。汚れた霊を追いやる力を持って、主イエスキリストはご自身を十字架へとおささげになってくださったお方である。父なる神の前にとりなしてくださり、贖いの御技を成し遂げてくださった、汚れた霊に取り憑かれた心を解き放す止めに、本当に自由なものとするために、主イエスキリストはそのようになさってくださった。主イエスキリストは汚れたもの、神様のご支配から離れて遠くにいると思われている人々のところに入っていかれる方であります。不思議な力をもって、不思議な弾き方おいて、来ていてくださるのであります。このことを私どもは心に留めたいと思います。そして神様の御名を賛美したいとおもます。 <お祈りを捧げます>

 

 

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