2015年1月25日 公現後第3主日礼拝

聖書箇所    マルコによる福音書5章11-20節 

11ところで、その辺りの山で豚の大群がえさをあさっていた。12汚れた霊どもはイエスに、「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願った。13イエスがお許しになったので、汚れた霊どもは出て、豚の中に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ。14豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。人々は何が起こったのかと見に来た。15彼らはイエスのところに来ると、レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった。16成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれた人の身に起こったことと豚のことを人々に語った。17そこで、人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした。18イエスが舟に乗られると、悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたいと願った。19イエスはそれを許さないで、こう言われた。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」20その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。人々は皆驚いた。

説教   主の憐れみを告げ 説教全文をここでもご覧になれます

先週に引き続きましてマルコによる福音書5章のはじめに記されている物語を開いています。主イエスがゲラサの土地で汚れた霊にとり憑かれている人にお会いになり、その人を解き放ちます。そしてその人は神様の憐れみを告げるようになったのでした。先週の説教と少し重なるところがあると思いますが、この物語に心を留めて神様を賛美したいと思います。

ゲラサ人の土地というのは異邦人、異教徒の土地です。20節を見ますとそこはデカポリス(Decapolis)という地名であったというふうに書かれています。デカポリスというのは10の都市、代表的な町が10個ある地方という意味です。ガリラヤ湖の東側に広がる地域であります。トランスヨルダンと呼ばれる地域でありますが、大変広大な地域であります。今日(こんにち)、この地域は大変むずかしい問題を抱えています。ことにヨルダンの北にはシリアがあり、シリアの少し南東にはイラクがあって、その地域で今、凄惨な出来事が続いております。

後藤健二さんと言う方が、大変厳しい状況に置かれているということが、今日のニュースでも報道されましたけれども、後藤さんは日本キリスト教団の田園調布教会の教会員でいらっしゃいます。それで大変心配しております。それから、ヨルダンに日本の政府の出先機関と言いましょうか、この問題の解決にあたる事務所が置かれておりまして、中山副大臣という方がおられます(イスラム国による日本人拘束事件を受けヨルダンの日本大使館に設置された現地対策本部長に就任した中山泰秀副大臣)。この方は小さい時から教会に行かれておられ、ミッション・スクールで学ばれたこともあり、私の親しい牧師先生がこの方を教えておられ、その方が大変な努力をなさっておられるということを伺っておりました。祈りに覚えて、この地域にある人々の上に神様の平安の祈りを捧げておるところであります。そういう地域がデカポリスと呼ばれる地域であります。主イエス・キリストは、ガリラヤ湖を渡りまして、この異邦人、異教徒の土地にお入りになりました。

そこに、汚れた霊と書かれておりますが、悪霊にとり憑かれた男がいまして、彼は全く正気を失っていたのでありました。「もののけ姫」というアニメーションが話題になったことがありました。どなたも思い出されるのではないかと思います。「もののけ」というのは、広辞苑によりますと「死霊などがたたること、またはその霊、邪鬼」であると説明されています。古い言葉であります。もののけは、暗闇の世界に現れ、人の暮らしを支配する存在、もののけ姫というアニメ映画は、祟り神にとり憑かれて、死に直面しながら、これから開放されたいと願いつつ生きる少年と、森の中で山犬の子として育ち、祟り神のそば近くに生きながら祟り神にはとり憑かれたくないと考えている少女の願いと冒険の物語でありました。で、こういう映画が共感を呼ぶというのは、私達の社会や現在の人間、そのなりわいが、何か不可解な闇として感じ取られているからでありましょう。聖書もまた、悪霊にとり憑かれた人のことを記しています。しかし、もののけ姫とは少し違いまして、マルコによる福音書が記しますのは、非常に深刻な事態であります。

その人の姿は私達の想像を絶するような悲惨な姿をしています。際立っているのは、そのひとつは、彼が自由を求めながらその自由をもって自分の身を傷つけずにはおられないということです。5節に「彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。」と書かれています。昼も夜も、と書かれていますが、あるいはお気づきかと思いますが、同じ言葉が(マルコによる福音書)4章27節に記されております。神の国について主がお語りになった譬え話の中であります。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて夜昼、寝起きしている間に、種は芽を出して育って行くが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。」4章では夜昼となっておりましたが、同じ言葉であります。この主の譬え話によりますと、私達が寝ては起き、起きては寝る、その一日一日というのは神様のご支配が広がり、命を育む時である、ということを伝えています。ところがこの昼と夜がこのゲラサの人にとりましては自分を破壊し続ける時としか、経験されないのであります。

さらにもっと悲惨な姿が描き出されています。それは、この悲惨の真っ只中にいる人は決して主イエスに救いを求めはしなかったということであります。彼は救いを求めることさえしなかったということであります。彼は救いを求めることさえ知らない、それほど、彼は汚れた霊に支配されています。自分が救われなければならない人間であるということに気づくことができるならば、どんなに幸いなことかとも思います。しかし、この人は救いを求めることを知らなかったのであります。自分を何とか救いたい、自分を助けたいと思っていたのは皮肉なことに、この人に取り付いた汚れた霊、悪霊だけであります。12節に「汚れた霊どもはイエスに、『豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ』と願った。」とあります。彼らだけが自分を助けたい、と必死になります。これが、聖書が描き出しております不可解な闇であります。で、この汚れた霊にとり憑かれたものは、手に負えない厄介者ですから、もはや、誰一人、彼に近づく人はいません。近づかないだけではなく、かれを見ること、彼の姿が自分の目に留まることさえ、おぞましいと誰もが感じていたことで有りましょう。

しかし、キリストはこの男にお会いになりました。そしてこの人の悲しみを知っておられました。そしてこの人を支配した悪霊に、もはや彼を支配する力をお許しにならないのであります。悪霊は出ていき、2,000匹の豚の群れに入り、ついには豚とともに湖の中に沈んだ、と書かれています。ものすごい物語だと思います。尋常ではなく、あっけに取られてしまう、そういう思いになります。ところでこの物語を読み進んで参りますと、この1人の人に起こった出来事が、この地方の人々に何をもたらしたのかを知ることができます。そのひとつは豚が2,000匹ほど、湖の中に流れ込んでしまったということであります。そしてそのことが人々を驚かせ、人々に動揺を与えたようです。14節にこう記されています。 豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。人々は何が起こったのかと見に来た。彼らはイエスのところに来ると、レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった。」、恐ろしくなった、と書かれていますが、正気になった人を見て、喜んだのではありません。喜べなかったのです。また、主を畏れ畏んだ(おそれかしこんだ)というのでもありません。そうではなくて、恐怖を覚えた、というのであります。

何故恐怖に襲われたのか、目の前に起きた出来事があまりにも思いがけないことだったので、即座には理解できないで、戸惑いの中に取り残されているからだ、ということではなさそうであります。16節からこう記されています。 「成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれた人の身に起こったことと豚のことを人々に語った。そこで、人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした。」、ここには、あの人のことと、豚のこととが並べて記されています。人間と豚、そのふたつのことを目撃者は語ります。そしてそれを聞いた人々は、イエスに、その地方から出て行ってもらいたいと言い出した、というのであります。で、彼らが何を考えていたか、ということは明らかです。豚のこと、豚が2,000匹死んでしまったということに心を捉えられた、ということではないかと思います。1人の人のことよりも、豚の大群のほうが重要な問題であった、人が正気になることによって豚が失われるというのなら、それは勘弁してほしい、そうはっきり考えて、そしてイエス様に出て行ってもらいたいと願ったということではないかと思います。

ある聖書の研究者はここにこの物語の重要なポイントがある、というふうに申しています。ここにこそ、汚れた霊に支配されている人間の姿がはっきりと描き出されているのではないかというのであります。自分の隣人よりも豚の方に高い価値を認める、すなわち「貪欲」であります。物質的な所有欲が私達を悩ます、汚れた霊がその一つであるということであります。そうではありますけれども、あまりに単純化して聖書を読まないようにしなければならないと思います。ゲラサの人々が考えたこと、そして判断したことをいとも簡単に批判することはできませんし、ふさわしくないと思うのであります。

20年近く前、三方原におりましたが、その時、教会の信徒のお一人で豚を飼っておられる方がいらっしゃいました。食用肉のため養豚をしておられたのであります。まあ、年齢を重ねておられましたから、その年の夏で豚は全部手放しなさったと聞きました。この方は、豚を愛しておられました。豚は食用に供せられるのでありますが、それが生活の糧になるのでありますけれども、そこには感謝と愛情が注がれていました。それが、人間と豚との関係であると思います。豚が汚れた霊と共に、湖に流れ落ちた時、豚を買う人々はそれを素直に喜ぶことはできなかった。豚はこの地方の人々にとっては、経済を支えるものであります。人々の生活がかかっている、経済の仕組みが豚と人間とを切り離せない関係として結びつけているに違いないのであります。そうだとすれば、ここにとりあげられている事態は、ひとりひとりの魂、人間らしいことを回復することと、経済、食べること、豊かになることとの間に葛藤がある、困難がある、悩みがある、ということでありましょうか。で聖書の時代も同じことだったということなのかも知れません。そういう重い現実というものを忘れて聖書を読むことはできません。まあ、そうではありますけれども、これでゲラサの人々は、1人の人よりも豚の大群の方に重要さを認めざるを得なかった。人々は1人の人の救いを退けて、その人を救うことがどんなに困難であったかを知っていたからでありましょう、その人の救いを退けて経済、豚をはっきりと選び取ります。それが、自分たちを支えるものだと考えたのでありました。

18節を見ますと、汚れた霊にとり憑かれていた人は、主イエスのお供をしたいと願い出た、ということが書かれています。誰ひとり、自分のことを顧みず、受け入れてくれない、そんな自分の国よりも、1人の魂を追い求め、お救い下さったキリストと一緒にいたい、お供してお従いして行きたい、そう思った、それはよくわかるような気が致します。ところが主イエスキリストはそれをお許しになりませんでした。そしてこう言われました。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」(19節)。イエス様は弟子たちをお集めになり、一切を捨てて、自分の弟子となるようにと、人をお召になることがあります。しかしそうではなくて、その人の生活の場所にお残しになって、そこで弟子として生きるようにと、お召になったこともあったのでありました。

この人には自分に家に帰るように、豚を選ばざるを得なかったひとの中に、なお、留まるようにと、お命じになります。そして主がこの男にお求めになったことは、この新しい弟子にお求めになったことは、「主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」ということでありました。主の憐れみ、1人の、汚れた霊にとり憑かれ、失われていた人間に近づき、神様の恵み深いご支配の元で、健やかに生きる命を与えてくださった、そしてその命に生きるようにと導いていてくださる、その憐れみを伝えることをお求めになったのであります。もしかしたら、この人は自分よりも豚を選んだゲラサの人々の愚かさや弱さについて、批判する心が芽生えていて、それが自分の心を充たしてしまうことであったかも知れません。それらのことを想像することもできます。愚かさがよく見えていたことでありましょう。そしてそのことをどんなにか雄弁に語ることもできたのではないか、と思います。批判すること、断罪すること、そうすることを見事にやってのけることもできたことでありましょう。

しかし、主のお求めになったことは、主の憐れみを知らせることでありました。それが、この新しい弟子の務めでありました。20節を御覧ください。 「その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。人々は皆驚いた。」と記されています。マルコによる福音書はここに異邦人の弟子が生まれ、異教徒の地に主の御教え、福音が広められることになったことを伝えています。言い広めたという言葉、これには注意をすべきであります。ここに用いられている言葉は、宣教するという言葉です。あるいは説教する、と訳してもよい言葉です。主イエスキリストが来て下さいまして、福音を述べ伝え、神の国の訪れを告げたように、この1人の人もまた、主イエスとその福音を述べ伝えるのであります。主の福音が述べ伝えられるところに主イエスキリストとその恵み深いご支配が来ます。1人の人の昼と夜はここに全く違ったものになっていきます。主イエスはかつて、こうお語りになっておられたのでありました。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて夜昼、寝起きしている間に、種は芽を出して育って行くが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。」私達が寝ては起き、起きては寝る、一日、一日とは、神様のご支配が広がり命を育む時だと、お教えになりました。ゲラサの1人の人もその神の時に使えるものとなりました。主の憐れみを告げるように、新しい一日一日を共に生きられるようにと、主イエス・キリストはその人をお遣わしになりました。<お祈りを捧げます>

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