2015年2月1日 公現後第4主日礼拝

聖書箇所    コリントの信徒への手紙二 7章10節 

10神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。

説教   悲しみと慰め 説教全文をここでもご覧になれます

先ほど読んでいただいたコリントの信徒への手紙二7章10節の御言葉を心に留めて神様を賛美したいと思います。私たち人間は悲しむべき材料が沢山ありますが、ところが私たちはなかなか悲しむことができない、心を落ち着けて真に静かに悲しむことを知りません。今、申し上げました言葉は、私の言葉ではありませんで、ある人の言葉であります。悲しむべき材料がたくさんあるけれど、なかなか悲しむことはできない、よく分かる言葉であります。ただ、ブツブツ言ったり、反抗したり、悲鳴をあげたり、ベソをかいたり、そうやってただ逃れようとしているだけだ、そういう自分を見出すことがあります。悲しみを恐れてその現実をまっすぐに見つめることができない、悲しみを負うことができないのであります。静かに悲しむことができるならばと、そう思うことがあります。

今日の聖書の御言葉はこう語っています。「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。」以前用いておりました口語訳聖書は、「神のみこころに添うた悲しみは、悔いのない救を得させる悔改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる。」そう翻訳しています。慰めをうける悲しみについて、この御言葉は語っているようであります。御心に適った、あるいはみこころに添うた悲しみ、と言っていますが、悲しみに幾つもの種類があって分別されて分けられるということではないと思います。この悲しみは神のみこころに適っている、あの悲しみはそうではない、そういって分けることができるわけではない、まして、悲しみを選ぶことができるはずもありません。悲しみは遠慮会釈なく襲って参ります。みこころに適う悲しみというのは、私達がその悲しみにどのように対処しているのか、その対処の仕方について、問い、考えてみるように促しているのだと思います。

神の御心に適った悲しみ、それは神様のもとに持ち来たらせることのできる悲しみということではないかと思います。あなたは悲しみをどこに持って行こうとしているのか、神様のもとに持っていくべきではないか、そう語っているように思われます。それが、神の御心に適うことになる、神はそれを受け止めてくださる、しかも、神様はご自身のお心に従ってそれを受け止めてくださる、神様にはご計画がある、悲しみは御心に適うものとなる、そう述べているようであります。神様のご計画とは取り消されることのない救いに通ずる悔い改めを私達のうちに生じさせるというのであります。口語訳聖書は、「悔いのない救を得させる悔改め」と訳していました。少し前の8節を見ますと、後悔していない、というパウロの言葉が示されています。この書簡を書いたパウロはコリントの教会にある時、手紙を出しまして何かしら言い聞かせた、その手紙を読んで彼(か)の教会は悲しんだ、そんなやりとりがあったようです。で、パウロはそうではあるけれど、手紙を書いて送った、そしてあなた方が悲しんだとしても後悔していないと、述べているのであります。

悲しみを与えておいて開き直っているのではないと思います。そうではなくて、コリントの教会の人々は、その悲しみを結果として神様の元に持ち出し、悔い改めることとなった、後悔どころではない、悔い改めて神の御心に適うものとなり、慰めを与えられている、そう記しているのであります。おそらくコリントの教会はパウロに何か相談したのでありましょう。そしてその返事をパウロが書いた、その結果、悲しむこととなった、けれどもコリントの教会は後悔して終わることがなかった、悲しみに翻弄されただけではなかった、悔い改めることとなって神の御心に適った、神様から慰めを頂いたというのであります。きっとパウロの手紙の中に、その言葉を通して神様の言葉、神の御心を受け止めることができたのだと思います。悲しみにおいて後悔するということが一方にありましょう。他方、しかし、悲しみが悔い改めとなる、ひいては神様から慰めを与えられる、そのようなことがあり、それで10節の言葉になっています。「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。」後悔し、悔いる悲しみとは、どういうことでしょうか。後悔というのは、自分のしたことが嫌になったということでありましょうか。よく考えてしたつもりがやはり失敗だったと思う。信仰のことで言えば、自分がこうした、ああした、それにもかかわらず神の恵みが感じられない、それで、自分の為したことを悔やみ、後悔する。その後悔というのは時に良いことのように思われますけれども、それほど深く優れたものではありません。どれほど深い後悔だったとしても、それは自分という中心を持っていて、そのもとに悲しみを投げ出しているだけのことであります。それをパウロは世の悲しみと呼ぶのだと思います。御言葉が語ろうとしていることは、悔いることのない救いをもたらす悔い改め、取り消されることのない救いに通じる悔い改めです。悔い改める悲しみ、御心に適う悲しみがそう語ります。悔い改めるというのは後悔とは違います。一般には同じように受け止められていますが、何か悪いことをしてそれを反省するぐらいのこととしか思われていないようでありますが、そうではありません。悔い改めとは向きを変えるということであります。この世とか自分に向いていたものを、神の方へ方向転換する、神のもとに戻るということであります。それは、キリストのもとに自分の悲しみを投げ出す、と言い換えてもいいと思います。神様は愛する独り子を通して私たちに御顔を向けてくださいましたから、私たちが神様に向くということは、キリストに向かう、キリストのもとに自分の悲しみを投げ出すということでありましょう。

宗教改革者のマルチン・ルターは、パウロの手紙の言葉を説明しまして、主イエスキリストの弟子、ユダとペテロを比較しています。イスカリオテのユダです。そして、もう一方はペテロであります。ユダはペテロよりも重い荷を背負っていたかもしれないけれども、なぜならキリストを裏切って銀30枚で売ったからだと、それで、永遠に救いも慰めもないと考えて絶望に陥った。で、このユダについてルターは、ユダはこうして悩みと悲しみのうちに後悔し外へ出て首を吊りました、実にあわれな男です、と述べているのであります。他方、ペテロもまた、激しく泣きました。彼は罪のために悩み苦しみました。鶏がなく前に三度、あの方を知らないといって主イエスを否(いな)んだペテロであります。彼も激しく泣いて悲しみました。しかし、慰めをうけて主の復活の証人となります。ルターはペテロについて、こう述べています。「彼は主が見つめておられる眼差しのもとで、泣き悲しむことができた」と。ペテロは一番必要なときに御言葉をつかみ、しっかりと握り、それによって慰めをうけ、神様が恵み深い方であるということに、望みをおくことができた、そう語っています。マルチン・ルターの言いたいことは、あなたの悲しみをキリストのもとに投げ出しなさい、キリストの眼差しのもとにさらしなさい、そこで悲しみを悲しみとして知りなさい、ということでありましょう。信仰にある悲しみ、真実に神に身を任せた悲しみによって、真の力が生じるんだ、真実に慰めを与えることのできるただ一人のお方を私達は知っているのではないか、そしてそこにキリスト信者の生活が存在し、人間の営みの歴史が形作られて行くことになる、そう語っているのだと思います。

一つの映画のことをご紹介したいと思います。その映画のなかで、こういう言葉が語られます。「わたしがこれを持って行こう。あなたには荷が重すぎるから。」愛のアンジェラスという古い映画です。白黒映画ですから古い映画です。もしかしたら青年時代に、ああ、観たことがあるな、と思い出すかたがおられるかも知れません。元の題名は「木の十字架」という題名です。日本で上映される時に、日本向けに題名が変えられて愛のアンジェラスとなりましたけども、「木の十字架」、というのが元々の題であります。それで、こういうストーリーであります。父を嵐で失って、母は悲しみの深いゆえに、遠くの療養所に送られている、そういう両親を持つ港町の少年の物語です。心やさしい果敢な漁師がこの少年を慈しみ、その悲しみを自分のように背負います。彼は犠牲を厭わない快活で真っ直ぐな心の持ち主であります。彼が願っていることがあります。それは、もう一人の人がこの少年の心の中に入ってくること、そのことを願っているのです。少年はこの漁師を心の支えとしますが、彼も少年の父親と同じく、嵐に遭遇してしまいます。悲しみに打ちひしがれる少年、その心にもう一人の人が旅人の姿で現れるのであります。象徴的に描かれるキリストであります。で、どのようにして現れるかと申しますと少年は海岸で木片を見つけるのです。その木片は、明らかに遭難した漁師の船の破片であります。そしてその破片が十字架の形をしているのです。少年は自分を慈しんでくれたあの漁師のことを思い出しながら、その木の十字架を誰も知らない、この少年だけが知っている秘密の洞窟に運んでいきます。その少年に旅人であるもう一人の人が近づき語りかけるのです。「私がこれを持って行こう、あなたには荷が重すぎるから。」そう言って十字架を背負って歩いてくれる、気が付くと少年はそのもう一人の人と手をつないで歩いているのです。そしてこの少年は悲しみを負い、苦しみを担い、犠牲を厭わない大人となっていく、そういう物語であります。この映画で描かれるもう一人の人の表情が印象的でありました。決して笑顔を見せることはない、悲しみをその眼差しに潜め、少年をその眼差しをもって見続けるのであります。悲しみを知っている、あなたの悲しみを私も悲しんでいる、そしてあなたの悲しみを負う、その眼差しが少年の心を捉えていくのです。

悲しみを分類することはできません、また、悲しみを選ぶこともできません、悲しみは遠慮会釈ないのだと思います。しかし、キリストは私たちの悲しみを知っていてくださる、ですから私たちもキリストのもとで真に静かに悲しむことを教えられていくのだと思います。そしてキリストがその悲しみを負っていてくださるということを知って、その悲しむ現実の中に歩んでいけるのだと思います。「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。」、そう記されています。聖餐式に今日、与(あずか)りますけれども、この御言葉を心にとめて、共に聖餐に与りたいと思います。<お祈りを捧げます>

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