2015年3月1日 四旬節第2主日礼拝

聖書箇所    マルコによる福音書 6章 1-6a節 

1イエスはそこを去って、郷里に行かれたが、弟子たちも従って行った。2そして、安息日になったので、会堂で教えはじめられた。それを聞いた多くの人々は、驚いて言った、「この人は、これらのことをどこで習ってきたのか。また、この人の授かった知恵はどうだろう。このような力あるわざがその手で行われているのは、どうしてか。3この人は大工ではないか。マリヤのむすこで、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。またその姉妹たちも、ここにわたしたちと一緒にいるではないか」。こうして彼らはイエスにつまずいた。4イエスは言われた、「預言者は、自分の郷里、親族、家以外では、どこででも敬われないことはない」。5そして、そこでは力あるわざを一つもすることができず、ただ少数の病人に手をおいていやされただけであった。6aそして、彼らの不信仰を驚き怪しまれた。

説教   驚き

今日読んでいただいた聖書の箇所は、何か高いところから低いところへと、突き落とされるような話ではないかと思います。十二年間も病に苦しんでいた女性が癒やされて、主の御手のうちに歩むようになる、その信仰に心が留まりました。会堂長の家では人々は泣き悲しんでいましたが、十二歳の少女が生き返る、主がこれをなさって人々は神様を畏れ賛美しました。ところが、今日の物語は一転して、信じることのできないナザレの村の人々のことが記され、何もすることができなかった主イエスのお姿を見るのであります。

ある人が、このような展開、ここには私達の信仰生活の姿が映し出されているように感じられると申しました。私達はある時は、信仰に固く立ち、いや、固く立っているということがあります。信仰が支えとなっている、ところがそう思っている矢先、ぐらつく、信仰がはっきりしなくなっている、そういうことの繰り返しが私達で、そのような私達の姿が、映し出されているように思われるというのであります。

イエス様のご郷里はご存知のようにナザレです。当時は小さな村でおよそ200人の人がそこに住んでいたと考えられています。人々は互いによく知り合っていたことでありましょう。3節で村の人々が主イエスのご家族のことを話しています。父ヨセフの名前もありませんから、おそらくもう既に亡くなっていたのでありましょう。母マリア、弟たち、すなわちヤコブ、ヨセ、ユダ、シモン、その名前が記されています。みんがよく知られていたからでありましょう。姉妹たちは名が記されていません。おそらく、既に結婚していたのでありましょう。故郷ナザレにお帰りになってイエス様は安息日に会堂で教え始められたと記されています。

その日、イエス様がお開きになった聖書の言葉は、ルカによる福音書によりますと、イザヤ書61章であったと書かれています。そこには、こう書き始められています。「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために。そして次のような言葉で結んでいます。「わたしは主によって喜び楽しみ、わたしの魂はわたしの神にあって喜び躍る。主は救いの衣をわたしに着せ、恵みの晴れ着をまとわせてくださる。花婿のように輝きの冠をかぶらせ、花嫁のように宝石で飾ってくださる。大地が草の芽を萌えいでさせ、園が蒔かれた種を芽生えさせるように、主なる神はすべての民の前で恵みと栄誉を芽生えさせてくださる。」このイザヤ書の言葉は、神様は栄光を表されること、大いなる救いの日が到来すること、そして神の民、イスラエルはその栄光に与り、全ての民を整えさせる務めにあたり、神の前に誉を受けるのだと、そう語っています。

イザヤ書のこの箇所は、貧しい物への福音と呼ばれます。神の約束をひたすら信じて、身を処し、歩み続けた人々、その貧しき者たちに告げられた良い知らせだというのです。主イエスキリストはこのイザヤ書の言葉をお読みになって、この時、今、これは実現したと仰せになったとルカによる福音書は記しています。これを聞いて多くの人々は驚いたようです。驚く、と訳されている言葉は、思いがけない事に出会ってびっくりさせられる、ハンマーでガツンと叩かれるような、衝撃に打たれる、思いがけない驚き、村の人々は大工の家に生まれ育ったイエス様がこのようなことをお語りになり、お教えになるので、びっくりしたのでありましょう。そして、イエス様の御教えに目を見張った、その言葉に力があった、打たれたということでありましょう。

人々は次のように言ったと書かれています。「この人は、これらのことをどこで習ってきたのか。また、この人の授かった知恵はどうだろう。このような力あるわざがその手で行われているのは、どうしてか。」ここに知恵とありますが、それはただ単なる処世訓、ありきたりの賢さということではありません。最上の知恵、最も高く、最も深い知恵です。このようなことをどこから得たのか、その知恵の出所がわからない。上から、天の父から授かるものでなければ、このような知恵を語ることができない。それほどの知恵がイエス様の口から語られたということを示しています。そして人々は噂として聞いていたこと、遠くでイエス様がなさった不思議な御技のことを思わざるを得ないのです。しかしながら、これも驚くべきことでありますが、それにもかかわらず人々はイエス様に躓(つまづ)いた、そう記されているのであります。「この人は大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモン、の兄弟ではないか。またその姉妹たちも、ここにわたしたちと一緒にいるではないか」。

躓いたと訳されている言葉ですが、ある聖書では、「彼らはイエスと衝突した」と訳しています。とても我慢できなかった、イエスを拒絶した、と訳す聖書もあります。驚くべき知恵、力ある技を主イエスの中に認め、しかし、主を信じることにはならない、かえって拒絶し、衝突し、躓いたということであります。この村人の反応について私共は戸惑います。何故そんなことが起こるものであろうかと、いろいろと詮索し始めるのではないかと思います。詮索致しまして、解釈致します。思いつくことのひとつは、イエス様が伝道のために故郷を離れた、父ヨセフ亡き後、本当なら長男でありますイエス様が家族の面倒を見なければならないのに、その責任は弟たちに負わせて自分は家族を離れ、村を離れて行ってしまった、その行動が腑に落ちない、どうしてもその事態を受け入れられない、人々の反発を買っていた、ということかもしれません。立派な話は結構だけれども、力ある技をなさるのもいいでしょう。しかし、あなたの家族のことはどうなっているのか、これは厳しい問いであります。ことに伝道者にとっては厳しく問われる問いであるか、と思います。

あるいはあまりにも身近な人だったので、そのことがかえって高く厚い壁となった、そう考えることもできます。近いということはよく知っているということであります。そのことが今度は逆に知ろうとすること、もっと理解しようとすることを妨げるということがありましょう。イエス様は預言者が敬われないのは自分の故郷、親戚や家族の間だけであると言われた、と書かれています。ある聖書の注解書は、当時の人々の間に知られていた一つのことわざを紹介しています。「預言者は自分の故郷では受け入れられず、医者は自分を知る人々に癒やしを行わない。」そういうことわざがあったと言うのです。自分の家族の病気については案外気が付かない。果たしてそうなのかどうか、私にはよくわかりませんが、これはことわざでありまして、私が言っていることではありませんので、このことはどうぞ、ご理解ください。しかし、確かに自分の家族の微妙な変化、その変化に気づかなかったり、気がついても大丈夫だ、ちょっとしたことだからと言って見過ごしてしまったり、そういうことはあり得るだろうなと思います。自分が自分の家族について、そのようなことが時としてあるからであります。聖書の時代にそのようなことわざがあったのだというのであります。

近いということは逆に知ろうとすること、理解しようとすることを妨げるということがあり得る、近いことの落とし穴であります。これは私たちに対する忠告でもあると思います。信仰生活が長くなると、心していないと求道の心が薄らいでしまう、そういうことでありましょう。信仰の生活に慣れ親しんで、淀んでしまうのであります。そういうことをこの聖書の箇所から教えられるような気が致します。そうでありますけれども、マルコによる福音書はこの物語を通してさらに大切なことを伝えているのではないかと思います。それは、主イエスキリストが近くおられた、ということであります。ナザレの村でその近さの故に、躓いたと伝える、この聖書の言葉を読んで、心に留まるのであります。それはイエス様というお方はそれほどまでに、ナザレの村の人々に近くおられたのだということであります。誠の人、まぎれもなく人であられた、まことに神にしてまことに人といわれますが、神の独り子がまことに人となられた、そのことがここに表されているように思われます。そして、マルコによる福音書は、そのイエス様の近さ、人となられた低さ、その低さこそ、実はナザレの人々が受けとめることができなかったけれども、まことの神の子の姿であった、そう伝えているのではないかと思います。最高の知恵、知恵の言葉をイエス様から聞く、不思議な力のある御業を見る、心を打たれる、しかし、だから信仰がそこに現れるというのではない、神の子であられるキリストの、まことのお姿は隠されていた。マルコによる福音書は高いところから低いところへと突き落とすようなこの物語を伝えて、実は私達を真の信仰へ、主イエス・キリストの元へ連れて行こうとしているのではないかと思うのであります。

ピリピの信徒への手紙の2章6節から9節には、次のような御言葉が記されています。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」主イエスキリストは故郷の人々に受け入れられなかった。それは、実はその低さ、私達には思い及ばない低さのゆえであった、しかもその低さこそ私達への救いでありとりなしであられたと、そうマルコによる福音書は伝えているのだと思います。5節と6節につぎのように書かれています。

「そして、そこでは力あるわざを一つもすることができず、ただ少数の病人に手をおいていやされただけであった。そして、彼らの不信仰を驚き怪しまれた。」ナザレの人々の不信仰、その不信仰の故に、イエス様は何も奇跡を行うことがお出来にならなかった。人間の不信仰はキリストの手の働きを止めてしまった、心に突き刺さる言葉であります。そして、イエス様は人々の不信仰に驚かされた、というのであります。失望させられがっかりしてしまった、あきれはててしまったのでありましょうか。そうではないようであります。ここに驚かされたと書かれております言葉は、2節の人々の驚きとは違うことばです。驚き怪しむ、不思議に思う、その不思議さに目をとめ、そしてそれを嘆き悲しむ、そういうニュアンスを持つ言葉であります。主イエスキリストは人々の不信仰をごらんになって嘆き悲しむ、驚き怪しむ、その不思議さに目をとめられるのであります。お祈りを捧げます。

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