2015年3月15日 四旬節第4主日礼拝

聖書箇所    イザヤ書43章 16-28節 

16主はこう言われる。
海の中に道を通し恐るべき水の中に通路を開かれた方
17戦車や馬、強大な軍隊を共に引き出し
彼らを倒して再び立つことを許さず
灯心のように消え去らせた方。
18初めからのことを思い出すな。
昔のことを思いめぐらすな。
19見よ、新しいことをわたしは行う。
今や、それは芽生えている。
あなたたちはそれを悟らないのか。
わたしは荒れ野に道を敷き
砂漠に大河を流れさせる。
20野の獣、山犬や駝鳥もわたしをあがめる。
荒れ野に水を、砂漠に大河を流れさせ
わたしの選んだ民に水を飲ませるからだ。
21わたしはこの民をわたしのために造った。
彼らはわたしの栄誉を語らねばならない。
22しかし、ヤコブよ、あなたはわたしを呼ばず
イスラエルよ、あなたはわたしを重荷とした。
23あなたは羊をわたしへの焼き尽くす献げ物とせず
いけにえをもってわたしを敬おうとしなかった。
わたしは穀物の献げ物のために
あなたを苦しめたことはない。
乳香のために重荷を負わせたこともない。
24あなたは香水萱をわたしのために買おうと
銀を量ることもせず
いけにえの脂肪をもって
わたしを飽き足らせようともしなかった。
むしろ、あなたの罪のためにわたしを苦しめ
あなたの悪のために、わたしに重荷を負わせた。
25わたし、このわたしは、わたし自身のために
あなたの背きの罪をぬぐい
あなたの罪を思い出さないことにする。
26わたしに思い出させるならば
共に裁きに臨まなければならない。
申し立てて、自分の正しさを立証してみよ。
27あなたの始祖は罪を犯し
あなたを導く者らもわたしに背いた。
28それゆえ、わたしは聖所の司らを汚し
ヤコブを絶滅に、イスラエルを汚辱にまかせた。

聖書箇所    ペトロの手紙一 2章 22-25節 

22「この方は、罪を犯したことがなく、/その口には偽りがなかった。」23ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。24そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。25あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。

説教   あなたの罪を思わない

四旬節を過ごしております。主イエスキリストのお受けになりました苦しみと十字架を偲びつつ、復活節の準備を私共はしております。今日は神様の独り子、イエスキリストが十字架におかかり下さったということ、そして私達の救いとなって下さったということについて、そこに含まれております深い意味合いのひとつを、イザヤ書の中から学びたいと思います。25節を御覧ください、こう記されております。「わたし、このわたしは、わたし自身のために、あなたの背きの罪をぬぐい、あなたの罪を思い出さないことにする。」神は私達の罪を思い出さない、そう御言葉は記しています。罪の許しということについて語る御言葉のひとつであります。イエス・キリストの福音、すなわち教会の教えでありますけれども、その核心は、この罪の許し、と呼ばれる神様の救いにあります。その深さと広さは、計り知ることができませんが、先ほど申しましたように、今日はこのイザヤ書の言葉に耳を傾けて罪の許しの福音、その恵みの一端に触れて、共に神様を賛美したいと思います。

今、読みました聖書の中に背きであるとか、罪ということが言われています。人間の愚かさがそのような言葉で言い表されています。そして、神様はその背きの罪を拭い、あなたの罪を思い出さないことにすると言われている、というのであります。ここで、背きとか、罪とか言っている人間の愚かさはなんだろうか、そのことを考えようと致します時に、まず目を引くのは神様が新しいことを始められる、と言われていることであります。19—20節を御覧ください、「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。わたしは荒れ野に道を敷き、砂漠に大河を流れさせる。野の獣、山犬や駝鳥もわたしをあがめる。荒れ野に水を、砂漠に大河を流れさせ、わたしの選んだ民に水を飲ませるからだ。」、道なき砂漠、野獣の住む荒野、飲む水のない、乾ききった有り様がこの言葉の背景に見られます。単に自然の有り様を描いているのではなく、人間の姿が赤裸々にこの言葉によって物語られています。しかし、そのような荒れ果てた現実が、変化して姿を変えるー砂漠に水がわき、荒野の川が流れる。野獣が神を賛美するーというのです。

神が新しいことを行う、それによってもたらされる新しい現実が働いています。人間の営みには苦しみが多くあります。また、不可解なことも多くあります。からんでほぐれなくなってしまった糸のように混沌としている、そのように感じられるような有り様も私達の身近に見られます。しかし、人生や歴史が神が新しいことを興される、その出来事に出会う機会であり、その舞台なのである、ということをこの言葉は語っているように思われます。神が新しいことを行う、それによってもたらされる新しい現実です。ところが、人はどうでしょうか。22節にこう書かれています。「しかし、ヤコブよ、あなたはわたしを呼ばず、イスラエルよ、あなたはわたしを重荷とした。」私を呼ばず、私を重荷としたと書かれてあります。呼ばない、というのは祈らないということです。イスラエルの人々は祈りを神の名を呼ぶとか、叫び求めると表現します。全人格を投げ出して叫び求めること、それが祈りであります。神が新しいことを行おう、と言うのに、人は祈らず、呼ばず、叫び求めないと。重荷としたというのは、骨折り、苦労することをやめたということです。ある聖書の研究者は、ここを、神に飽きた、と翻訳しています。祈ることは生きることであります。神に生きることでありますけれども、それに嫌気がさした、飽き飽きした、骨折り労苦することをやめた、そう書かれているのであります。23—24節には、この人々はもはや礼拝をささげなくなってしまったことが書かれています。ずたずたの希望を失っている人間がここにいます。その少し前を御覧ください。18節にはこう記されています。「初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。」何を言っているかと申しますと、16−17節と関係があるのでありますけれども、昔、神様がなさった救いの出来事を巡ってイスラエルの人々の霊のありかを問うているのであります。16−17節にはこう書かれています。「主はこう言われる。海の中に道を通し、恐るべき水の中に通路を開かれた方、戦車や馬、強大な軍隊を共に引き出し、彼らを倒して再び立つことを許さず、灯心のように消え去らせた方。」有名な出エジプトのことが思い起こされております。イスラエルの人々が脱出するために、紅海が水を空けて海の中に道を通し、また追いかけてきたエジプトの軍隊を海の中に沈めた、というあの奇跡があります。出エジプトと言えば、イスラエルの信仰の原点であります。救われ信仰を与えられたという出来事であります。人はその昔を思い出し、昔を思い巡らしています。結構なことのように思われるのでありますが、ここではそうではありません。イスラエルの人々は、それを昔の話、いにしえの事、既に過去のものとなってしまい、それは閉じられてしまった、そのような判断の下に、昔を思い出しているのであります。落ち込んだ、やる気のない現実が映し出されているのだと言われます。同じような気分を伝える言葉が、イザヤ書63章11節にもあります。そこには、こう記されてあります。「そのとき、主の民は思い起こした、昔の日々を、モーセを。どこにおられるのか、その群れを飼う者を海から導き出された方は。どこにおられるのか、聖なる霊を彼のうちにおかれた方は。」このイザヤ書の43章というのは2600年ほど前のことです。イスラエルの人々は国を失い、その主だった人々はバビロンという国に捕らえられた、バビロン捕囚と呼ばれる出来事がありました。囚われの身となったのは、60年ほどのことでありました。この囚われの地で、ある預言者が神の言葉を委ねられて語りました。イザヤ書にこの言葉が残されておりますが、この預言者はイザヤではありません。今日、一般に第二イザヤと呼ばれる、その名前が知られていない預言者であります。国が崩壊し、信仰のよりどころである神殿も破壊され、遠い異国に抑留された人々は祈ることをやめ、礼拝をやめ、その霊が沈み込んでしまった。この人々に預言者は神の言葉を委ねられて語ったのであります。「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。」しかし、人は落ち込んだままである。祈ることをせず、神を呼ばず、礼拝を捧げない。ですからこの25節に記されている罪と背きと言われているのは、神様への不信、ということであります。人生や歴史は、神が新しいことを興される、その出来事に出会う機会であり、舞台なのだという信仰を、人々は失ってしまっているということです。未来を新しくもたらす神、その神への不信仰です。しかしながら、この人間の不信仰に対して25節の御言葉は語るのであります。「わたし、このわたしは、わたし自身のために、あなたの背きの罪をぬぐい、あなたの罪を思い出さないことにする。」これは、否定を否定する言葉です。新しいことを始める神、救いと恵みの神を人間が否定している、その人間の否定を神が否定するのであります。人間が神などいない、と言っているのに対し、そんなことはもはやあり得ない、人間はそうであってはならない、といわれるのであります。大変強い意思を感じさせる言葉だと、言われます。執念と言っても良いような意思を感じさせる言葉だというのであります。「わたし、このわたしは、わたし自身のために、あなたの背きの罪をぬぐい、あなたの罪を思い出さないことにする。」この25節の言葉は、24節の最後の言葉と共に語られていたのであります。「むしろ、あなたの罪のために私をむしろ、あなたの罪のためにわたしを苦しめ、あなたの悪のために、わたしに重荷を負わせた。」、神などいないと神を否定する人間、私共の人生や歴史が、新しいことを興す神との出会いの機会であり、舞台なのだということを信じることができない人間とその罪について、神は、私を苦しめ私に重荷をおわせた、とそう言われた。神は苦しみを感じ、重荷と感じられる、神は人間が希望を失っていることを心に痛みと感じ、重くそのことを受け止めておられる。そしてその人間を放っておかれない、というのであります。この言葉から知らされることは、神様が不信仰な人間をそのままにして、ご自分をよしとされない、これでいいんだとご自分の心に語りかけることはないということであります。人間が神様から離れている、それは喜ばしいことではないけれども、それよりもなによりも神がそのことをご自分に対して義とされない、これでよいのだと、自分の心に語りかけない、ですから、罪を思い出さない、というのは見て見ぬふりをするということとは違います。罪の問題を問わない、ということでもありません。その始末をうやむやにすることではありません。28節にこう書かれています。「それゆえ、わたしは聖所の司らを汚しヤコブを絶滅に、イスラエルを汚辱にまかせた。」、刑罰が語られています。人間の歴史の否定としての刑罰です。しかし、そのようにして神が人間を徹底して、肯定されようとするのであります。神がご自身の心にこれでよいのか、これがまことにわたしにとって正しい事なのか、そう言われるのは私達、神を信じることができない人間に対して、あなたの罪を思わない、そうおっしゃって下さったと言うのであります。神の独り子であらせられます主イエス・キリストが人となられたのは、私どもの罪を背負って、十字架にお掛かりになるためでありました。そして復活なさって神様が私共に対して、これは良きものだ、と言って、私共を受け入れて下さるためでありました。この主イエス・キリストこそが神様があなたの背きの罪を拭い、あなたの罪を思い出さないことにすると言われたことのしるし、となっているのであります。神様は人間を否定する、神様は人間の否定を否定することによって、神様は恵みと救いの神であられることをどこまでも貫かれる、ご自身を義とされるのだ、それで御言葉は、「わたし、このわたしは、わたし自身のために・・・」と記しているのであります。イエス・キリストが十字架にお掛かりくださったということを思い起こす時に、このイエス・キリストを通して神様がご自身の義をどこまでも貫かれる方なんである、その神様のご意思の中に、この出来事が行われたのだ、そして、私達は許されて神さを信じることができているのだ、そして私達が生かされている時、それは新しいことを興す神様の時なのだ、舞台なのだ、祈ることを教えられて、歩みだしているのだということを心に留めたいと思います。お祈りを捧げます。

 

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