2015年5月3日 復活節第5主日礼拝

聖書箇所   列王記上 19章 8-12 節      マルコによる福音書 6章45-56節

細い、静かな声で

英語で「水の上を歩く、Walk on water」というと、それは比喩、たとえでありまして、不可能なこと、無理だと思われることをするということだそうです。しかし、奇跡物語というのは、ただ不思議なことを主イエスがなさった、神の子であられるから何でもおできになるということではなくて、私たちには思いがけない仕方で、また私たちの思いを超えて恵み深くいって下さるということを伝えています。

今日の物語ですが、主イエスは弟子たちを船に乗り込ませ、向こう岸のベトサイダへと先におやりになり、ご自分は群衆を解散させると、祈るために山へ退かれたと語り始められています。夕方になって弟子たちの船は湖の真ん中へと至ります。ところが強い強風が吹くので先に進むことができない、漕ぎ悩んだと書かれています。主イエスはその様子をごらんになり、彼らに近づこうと海の上を歩き、夜明けの四時頃、弟子たちの船に追いついて、そのそばを通り過ぎようとされたというのであります。今日はこの物語に心を留めて神様を讃美したいと思います。

強いて主イエスキリストは弟子たちを船に乗り込ませたとあります。「強いて」という言葉に心が留まります。定め、あるいは時には運命と訳される言葉でありますが、必ずしも無理矢理にという意味ではなくて、主イエスにご計画があり、その御心が強く働いたということを記しています。コリントの信徒への手紙に使徒パウロの言葉が記されています。自分が福音を宣べ伝えることについてこう語りました。「もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。」(コリントの信徒への手紙一9章16節)そうせずにはいられないことなのだ、自分が福音を宣べ伝えるのは神の御心によること、そして自分もそのことを喜んで受け止めており、自らも進んでそうするのである、それ以外のことは考えられない、そう語ったのでした。そのパウロの言葉の中にあります「そうせずにはおられない」と訳されているのが、「強いて」という言葉であります。主イエスは弟子たちを強いて送り出し、弟子たちもまた、主のお言葉に応えて船を漕ぎ出したのであります。船出した弟子たちは逆風に阻まれ、湖の真ん中で漕ぎ悩んでしまう、これもまた心に留まることであります

船は教会を表すシンボルでありますが、教会での経験を思い起こさせます。逆風に漕ぎ悩みます。しかし、主イエスはその弟子たちをご覧になられたと、記されてあります。真っ暗のなか、捜索困難、救助不可能な夜の嵐の中、主イエスは漕ぎ悩む弟子たちを知っていて下さったというのであります。さらに46節には、群衆に別れてから祈るために山へ退かれたと記されていますが、主イエスキリストは、お一人になられて父なる神様に祈っておられた、それは逆風のなかで漕ぎ悩むであろう弟子たちのために祈っておられたということでありましょう。夜が明ける頃、朝の4時から6時にかけての時間をさすそうですが、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを歩いて通り過ぎようとされたというのであります。通り過ぎる、主は通り過ぎられた、これも心に留まることばであります。漕ぎ悩む、前に進むことができない弟子たちの船に近づき、主イエスはというと、しかしそこを通り過ぎて行かれたというのであります。嵐をものともせず、通り過ぎて行かれる主が弟子たちのそば近くにおられたのであります。

先ほど読んで頂きました旧約聖書列王記に記されております故事を思い起こさせます。列王記というのは古代イスラエルの王国の歴史を綴った書物ですが、その中に預言者エリアの物語が伝えられています。今から2800年ほど前のことです。イスラエルの国は少しづつ農業が盛んになり、栄えはじめ繁栄を経験しようとしていました。外国との経済的結びつきも強くなり、宗教上の事でも強く影響を受けるようになっていました。そして王も民も、主なる神を離れ、異教の神々に心を奪われてしまった。そのとき預言者エリアが立てられ、その使命はただ一つ、イスラエルが主なる神を畏れ、真の礼拝を捧げるようになるというものでありました。命がけ、命をかけた戦いでした。物語を読んでみると勇敢で力強いエリアの物語と読むこともできます。よく知られているカルメル山での出来事です。バアルの預言者たちと対決しました。バアルとは偶像の神々、異教の神々ですが、そのバアルに仕える預言者たちと相対したのです。彼らの背後には隣の国から嫁いできたイザベルというものすごい王女がおり、バアルに仕えるものは450人、一方エリアはたった一人でありました。しかし、エリアはその時、主なる神が真の神であられることを示すことができたのでした。真に勇敢な、勇ましい、力強いエリアの姿が描かれています。しかし、このエリアの勝利はほんの束の間のことでありました。王女イザベルの憎しみをかって、命を狙われることになります。そして遠く逃れて行かなければなりませんでした。それが列王記上19章に書かれていることであります。主よ、もう十分です。私の命を取って下さい。私は先祖に優る者ではありません。エリアはまるで敗残兵のごとくに逃げては力尽き、自分の死を願うのでありました。打ちひしがれ、望みが絶えている、エリアは神の僕として生き、神の言葉を証する時に、敗北者だったのです。イスラエルの頑なな心の前に力尽き、倒れ打ちひしがれるのであります。自分がイスラエルの民の一人であり、愛する民の一人として神に召され、その民に預言者として遣わされているが故に、その敗北は一層、重苦しいものでありました。イスラエルの頑なさ、それを一身に負い、神の裁きを自分の身に感じ取ってもいるのであります。このように打ちひしがれたエリアはもはや神の預言者ではなくなったのでありましょうか。そうではありませんでした。敗残兵のごとく敗走するエリアは神の臨在の前に立たされ神の言葉を聞きました。エニシダの木の下に倒れるように伏して眠るエリアに天から遣わされた使いが、起きて食べろと呼びかけ、焼け石で焼いたパンと一瓶の水が用意されていました。起きて食べよ、この道は長く、あなたは耐えがたいからだ、歩き続けるのだ、あなたの使命は終わっていない、このパンと水とでもって、あなたは養われなければならない。そう、天の使いが語りかけたのです。もう、これで終わりだと思っていたエリアは、なお、歩むべき道のりがあり、遙かなる道のりが始まることを知りました。天からの食物によってエリアは養われ、歩み続け40日40夜の旅路を支えられます。そして彼は、ホレブ山に導かれます。ホレブ山というのは、かつてモーゼが神にお会いし、十の戒めを当たられたシナイ山のことです。この山でエリアは主にお会いします。お会いします。その出来事を聖書は、主がエリアのすぐそばを通り過ぎられたと、記しているのであります。エリアは神がおられるのだ、ということに気がつきます。こんなことが書かれています。そのとき、非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた、しかし、風の中には主はおられなかった、また、地震の中にも主はおられなかった。地震のあとに火が起こった、しかし火の中にも主はおられなかった。天と地を揺り動かすような力の現れ、それらをエリアは求めていたかもしれません。神がおられるのなら、そのような力をもってイスラエルに臨んでほしい。しかし、そこには主はおられなかった。そうではなくて、静かにささやく声が聞こえたというのであります。細い、静かな声、神はエリアにご自身を現されたのでありました。その声はエリアの心を慰め、勇気を与えました。神様がイスラエルを新しく起こす人々を備えていて下さると告げたからであります。これが、主は通り過ぎられたと記す旧約聖書の物語なのであります。

私たちは神様の御前に正面を向いて立つことはできません。弟子たちは主イエスを見て幽霊だと思い、大声で叫びました。怖じ恐れたのでありました。漕ぎ悩む船の中で弟子たちは主イエスの姿を見失っていたのであります。しかし、主イエスは弟子たちに声をかけ、しっかりするのだ、私である、恐れることはないと言い、船に乗り込まれたのであります。主イエスがそばを通り過ぎようとなさったのは、私は神であると、漕ぎ悩む弟子たちにお示しになるためでありました。私は神である、神である私があなた方と共に、今ここにいる、私は嵐の中、途方に暮れる弟子たちを見守っていた。私はこの艱難を通り過ぎていくものなのである。勇気を出しなさい。そう言われたのであります。風は止み、向こう岸、ゲネサレトの地に着くことができました。人々はそこに主イエスがおられることを知り、その地方の人々はあまねく知り、多くの人々が主イエスのもとにきて癒やされたと記されています。

主イエスキリストはご自分のお働きのために、弟子たちをお遣わしになります。嵐の海の中にお遣わしになります。そしてその弟子たちのために祈り、見守り、近づき、ご自身がともにおられることをお示し下さるのでありました。マルコによる福音書を読んだ人々は、この物語を繰り返し読み、主のお言葉に心を留めたと思います。私たちもまた、主のお姿とお言葉を、この物語を自分たちに与えられた物語、主がともにいて下さることを教える物語として心に留め、喜び、感謝したいと思います。<お祈りを捧げます>

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