2015年5月10日 復活節第6主日礼拝

聖書  出エジプト記 20章 12 節 

マルコによる福音書 7章8-13節

説教  父と母を敬え

「あなたの父、母を敬え」、10の言葉、十戒の第五の言葉です。最初にこの言葉について昔から重んじられてきていますドイツの教会で作られた信仰問答書にある教えを御紹介したいと思います。ハイデルベルグ信仰問答です。こう書かれています。「神は彼ら、すなわち父と母の手によって、我らを支配することを欲した。」それが父と母の意味だというのであります。神は天の父であられます。父として私たちを養い、関与していて下さる、また正しく指導して下さる、あるいは母のような慈しみ深い手をもって私たちを育んで下さる。父と母とはこのような父なる神の代理として子供たちに臨んでいるというのであります。これは、私たちの父や母のことを思い起こしながら心に留める言葉です。また、私どもも父または母として歩んでいますけれども心を整える言葉でもあります。そして何よりも教会の交わりの中で、その教会に与えられている父・母たちがいることを覚えるわけであります。今日は母の日でありますけれども、このように教えられている十戒の言葉を心に留めて、神様を讃美したいと思います。

この戒めは大変素朴なひとつの事実を示しています。人間はだれでも父と母とから生まれて来るということであります。人間には選ぶことのできることと、選ぶことのできないこととがありますが、父と母、それは選ぶことのできないものであります。この選ぶことのできないものから私たちは生まれてきました。気がついてみると父や母だけではなく、兄弟や姉妹も一緒に生活していたのであります。ひとつの家庭の生活、また、ある秩序をもった社会が既にあって、その一員として生まれた、それが私たちであります。この戒めは、その素朴な一つの事実を示しているのであります。私たちが生まれてきた環境、また自分たちの父や母について、皆さんはどういうご感想を持っておられるでしょうか。大変、感謝と喜びをもってこれを覚えるという方もおられるでしょうし、また苦い経験や困難を感じながらこれらのことについて考えていると、そういう方もおられるに違いありません。この十戒の戒めは、その素朴なひとつの事実を示しているだけではありませんで、約束が語られています。そうすればあなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる、神様が与えて下さるところで長く生きる、と書かれています。長く生きるというのは祝福の豊かなことを言い表す言葉です。この御言葉はこのように約束を伝えます。選ぶことのできない、既に与えられているもの、そこに神様の約束が伝えられている、神様の御手があり、御手の働きとメガテ、すなわち救いの約束が与えられるということを語っています。ある人がこんな事を言っています。この戒めを知るということは、私たちが今生きている人生、人生が営まれている場所を神様から賜ったものとして受け取り直すことに他ならないのではないかと。これはこれで戒めの言葉をよく受け取れている言葉だと思います。私たちが今、生きている人生、その営まれている場所を神様から賜ったものとして受け取り直すこと、それがこの戒めに習うということであります。

聖書は一人の父親と一人の母親のことを伝えています。人類の初めの物語として伝えられているアダムとイブのことであります。二人は神の御手によって創られエデンの園に置かれました。神様が祝福し、ここがあなた方の生きる場所だと言って二人をエデンの園に置いたのであります。これは私たちが存在する、その初めに恵みが、神様の恵みがあったということを伝えているものであります。さらに物語は続きます。こともあろうにアダムとエバは、狡猾な蛇の誘惑に負けて罪に落ちます。恵みに背を向けてしまう人間が描かれます。それが人類の最初の父と母の姿だというのであります。神はこの二人を楽園から追放し、そのときから男は労働の苦しみを、女は産みの苦しみを身に負ったのだと語っています。生きることに伴う苦しみ、歴史の苦労、労苦が始まりました。しかし、興味深いことでありますが、物語の終わりのところから、人が楽園から追放されるのでありますが、そこで聖書は次のように記しています。「アダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべて命あるものの母となったからである。主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。」(創世記3章20-21節)。神様はご自分で用意された衣服で二人を包み、エバが命と呼ばる事を喜びとされ、これをすべての母となさって祝福された、そう記しています。楽園から追放される、アダムとエバに、なお寄り添う神様の慈しみと守りとを聖書は伝えて止まないのであります。

神様の恵みに背をむける人間、歴史の苦労、重たさを聖書は見定めています。しかし、それにもまして創り主である神様を見上げて、その恵みと慈しみとを覚えて、神様の御手からすべてを受け取り直すべきであるというのであります。これが、聖書が語る最初の父親と母親の物語であります。そして、父・母を敬えとの戒め、その心をここに読み取ることができるのではないかと思います。私たちが今、生きている人生、人生が営まれている場所を神様から賜ったものとして受け取り直すのであります。この、受け取り直すことについて、戒めは、敬う、という言葉で表現しています。父・母を敬え、敬う、とはどういうことでありましょうか。先ほどマルコによる福音書を読んで頂きました。この箇所は、ずっとマルコによる福音書を読んで参りまして、ちょうど今日、読まれるべき聖書の箇所にあたるでありますけれども、そして、来週、これを詳しく取り上げようと思っておりますけども、そこには戒めに従おうとする人間の、しかし、従い得ない姿がイエス様の言葉によって語られています。神様に対する礼儀を盾にとって、父と母を軽んじている、平気で軽んじてしまっている、それは誠に卑劣な精神です。それはこともあろうにパリサイ人の姿であると言うのです。いや、およそ、人間の姿であるというのです。そのような愚かさを身に帯びている私たちでありますが、主の憐れみのもとで、ただ憐れみによりすがって神様が与えてくださった戒めの言葉に聞きたいと思うのであります。

この「敬う」という言葉ですが、ヘブル語では、重みを与えるという意味を持った言葉だそうであります。貫禄を与えると言ってくれるのですが、といっても私のように太る必要はありませんけれども(^0^)、貫禄を与える、重みを与える、誠実に受け止め、軽々しい評価はしないということを意味しています。これは、無条件に従うということとは違います。昔、ローマにカトリア・ポテスタと呼ばれる、父親の権利を規定した法律があったそうであります。それは、子供たちに対する父親の絶対的な権利を謳っていた、というのであります。それによると父親が生きる限り、子供は法律的に成人として認められず、自分自身の財産を1円たりとも持つことができなかった、それだけではなく、子供は父親の自由にすることができ、子供を殺す事さえ許されていた、というのであります。敬う、というのはそのような絶対的な服従をいうのではありません。どのようなものであれ、地上の権威や伝統、父親や母親に対する盲目的な服従を神様の戒めは命じてはいません。20世紀、チェコという国にある神学者がいまして十戒について書物を著しています。幸いなことに、日本語で読むことができます。この方は、敬うということについて、注意深くこれを聞きとらなければならないと忠告しています。そして、敬うということは崇拝することとは断然違うと記しています。すなわち、無条件に従う、ということではない。現代的に言うと、この戒めは個人崇拝を意味しないし、地上のあらゆる権威や栄光を称えることをも意味していない。権威主義という言葉がありますが、そのような臭いは全くない。もしもそのような臭いをこの戒めの中に読み取ろうとするなら、聖書全体と矛楯するといって、主イエスキリストのお言葉を引用しています。母マリアと兄弟たちが、主のお働きをやめさせ、自分たちの家に引き戻そうとしたときに、主がお語りになった言葉です。「イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」(マルコによる福音書3章31-35節)。主イエスはこのとき、ご自分の母親を退けられました。それによって人生には、家族や伝統や前もって秩序づけられた権威よりも、もっと重要なものがあるのだ、ということをお語りになり、お示しになったのでありました。そうではありますが、主イエスはご自分の家族を疎んじ、軽んじるということは決してありませんでした。神様の恵みの下にこれを覚え、お招きになるのであります。

アウグスチヌスという人をご存じだと思います。少しも大げさではないと思いますけれども、ヨーロッパのキリスト教世界の、精神的な基盤を築いた人であります。この人にモニカというお母さんがおられました。信仰の厚い人だったようですが、アウグスチヌスは随分この母モニカを悲しませたのでありました。しかし、モニカは息子のために祈り続け、その祈りが聞かれたのでありましょう、アウグスチヌスは教会に戻って参ります。そしてのちに大きな働きをするようになりました。このアウグスチヌスは、告白録という書物の中で、母モニカのことについて語っています。その中にこんな言葉があります。「彼女は肉においては時間的な光を打ち、心に関しては永遠の光のうちに誕生させるべく、この私を産んだのでした。」母モニカが自分を産んでくれたこと、そして自分に信仰の種を蒔いてくれたことを語っている言葉です。しかも、いずれの事についても光のうちに、と言っています。すなわち彼女は二つの光をアウグスチヌスに教えたのです。一つは時間的な光です。すなわち、この地上における光です。もう一つは、永遠の光です。天にある光と言えばよいのだと思います。この地上でも光を見るのです。しかし、地上の光だけをみることはない、あるいは天上の永遠の光だけを見ようというのでもない、二つを見るのであります。永遠の光と時間的な光、その二つはおのずと違います。そして地上の光は永遠の光があってこそ輝く光です。地上の光は時間という、時の流れの中で、あたかも水の流れが波間に太陽の光を反射するように、輝いては消え、消えては輝く、そのような光に過ぎない、しかし、それも光です。そして、その光と共に人は永遠の光の下に導かれるのであります。このアウグスチヌスの言葉は、敬うということを物語る言葉でもあると思います。私たちに既に与えられているものを、二つに光のうちの一つとして尊び、誠実に受け止めるのです。決して軽々しく評価したり、退けたりしない。永遠の光に照らされる光として、これを受け止めるのであります。それは、批判的な対話を含むものでありましょう。批判的というのは、悪口を言ったり非難するということではありません。真実が現れるために、大きな光の前に小さな光を置いてみようとすることであります。繰り返し、それをするのであります。互いに言葉を交わしあうように、繰り返し対話する。対話することを学んで大きな光の前に、小さな光を置いてみようとするのであります。

父・母を敬えと、聖書の御言葉は語っています。この御言葉には祝福と約束が伴っています。そしてこれは神の民、イスラエルに向けて語られました。また、教会に語られている言葉であります。古くから教会は、先ほどご紹介したように教えられてきました。神は彼ら、すなわち父と母の手によって、我らを支配することを欲した、神は父として私たちを養い配慮して下さる、また、正しく指導して下さる。あるいは母のような慈しみ深い御手をもって私たちを育んで下さる。父と母とは、このように父なる神の代理として子供たちに臨んでいるのだというのであります。

最後に、かつて東京神学大学の学長をなさった先生が、教会学校の先生たちに書かれた書物の中で、大切なことを綴っているのでありますが、その一部を紹介して、説教を終わりたいと思います。第五の戒めは、日本のプロテスタント教会にとって特に重大な意味を持っています。それは、第一世代のキリスト者が多いからです。彼らには家の宗教を捨て、親の反対を押しきり洗礼を受けた人が大部分なのです。ある面で、父・母を捨てて主イエスに従ったのです。伝道に於いて、私たちはそのようにすることを勧めるのです。そのとき、はっきりさせておかなければならないことは、そのようにして主イエスに従うことが、むしろ真実、父と母を敬う根拠なのだということです。このことに誤解があってはいけないと思います。いまひとつは、プロテスタント教会は文字通り、プロテスト=抵抗、反抗する性質が強いんです。それだけに、父、母、長老、霊的な先達、伝道にたいする尊敬、謙遜を学ぶ必要があります。尊敬する能力を欠いたキリスト教が主が賜る地で長く生きることができるはずがありません。今日は、母の日であります。聖書の御言葉を心に覚えたいと思います。    <お祈りをします。>

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