2015年5月17日 復活節第7(昇天後)主日礼拝

聖書 マルコによる福音書 7章14-23節

説教 心を覗いてごらん

ただいま7章の14節から23節までを読んで頂きましたけれども、1節から続いております箇所でありますので、最初の1節から23節までを取り上げて、共に聖書の御言葉に耳を傾けたいと思います。福音書の中では、比較的長い物語に属するのではないかと思います。物語と申しましたが、ある人々との論争、そして弟子たちに語られた御教えであります。私達にはなじみの薄い話のようにも思われますが、大切なことをここでもイエス様がお語りになっておられます。しかもユーモアをもってお話になっておられます。こころに留めて、神様を賛美したいと思います。

汚れ(けがれ)を巡る論争があったということが記されております。パリサイ派の人びと、また律法学者と呼ばれる人々は、ご存知のように旧約聖書の御教え、神の戒めに従って潔く生きようとする人々でした。そうすることで神様に喜ばれ、神に属する者としてふさわしく、清く聖別されているのだと信じていました。1節をみますと、エルサレムから来たというのですから、権威ある人達なのでしょう。あるいはその権威ある人々に連なる人々です。たぶん彼らはイエスさまと弟子たちを監視するために来たのであります。どこか、いやな感じのする人たちでもありました。論争のきっかけとなりましたのは2節にありますように、主イエスの弟子たちの中に、手を洗わず汚れた手で食事をするものがあるのを見出したからであります。手を洗う弟子もおり洗わない弟子もいた、汚れている、手を洗わないというのは、言うまでもなく衛生上のことを言っているのではありません。宗教上のことであります。汚れというのは、神様から離れて、俗っぽいとか、神様に相応しくないという意味であります。彼の人々は、汚れることを恐れたのでした。3節4節には念入りに手を洗って清めるだけでなく、市場から帰って来たら、身を清めること、野菜を買って帰ってきたら、野菜を水で洗うだけでなくて運んできた器の類も全て清めなければならないとされていたようであります。清めの定め、清めのための儀式であります。市場では異邦人や、神様の戒めに従わない人々に出会います。そういう人々と接触します。そうすると汚れてしまう。あるいはその人々が取り扱った物が売られていたり、また、売られているものの中には、それ自体で汚れているとされている食べ物もある。豚肉などは、その代表的な物でありました。それらに触れた手や体、器まで全て清めなくてはならない、そのための定めです。無論、このことが旧約聖書の律法にはっきりと書かれているわけではありません。しかし、信仰深い、敬虔なものはそうすべきだ、と言い伝えられていたのであります。昔の人の言い伝え、それは神様の戒め、あるいは律法を間違いなく守ること、そのために定められた具体的で細かな規則であります。これをいちいち守っていれば神様の戒めを間違っても破ることはないし、自分は清く保たれそれでこの言い伝えは、律法の垣根、律法を取り巻き、これを守る垣根であると言われていたのであります。確かにそのような具体的な細かな規則を定めてこれを忠実におこなうということで神様の戒めにならうことになるというのは、わかりやすく確実なことであり、正しいことと思われたのでありました。ところがイエス様の弟子たちの中には、手を洗うものもあり、洗わないものもいた。これは理解し難いこと、受け入れがたいことだったのでありましょう。それで5節ですが、「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか」とイエスに尋ねているのであります。これに対してイエス様は6節を見ますと、旧約聖書の預言者イザヤの言葉を引用しまして、かの人々を偽善者と呼び、虚しく神を崇めているとお語りになりました。偽善者というのは、ずいぶん手厳しいことですが、仮面を被っているということです。表向きと内実が違うということでありましょうか。人間の言い伝えに固執し、神の掟を捨てている。まるで逆さまのことで見当違いなことをしていると、そう仰せになるのであります。そしてその一つの例として8節から13節で父、母を敬えという律法の掟を取り上げています。先週は母の日でありましたので、この父、母を敬えという御言葉を共に学びました。その時も触れましたけれども、この箇所にありますコルバンというのは、供え物あるいは神へのささげものを意味しているようです。当時もし、神殿において自分はコルバン、神への捧げ物であると、誓をたてるなら両親を扶養する義務が免除されたというのであります。それで神様への礼儀を盾に、父と母への礼節を軽んじる人たちが現れている。両親を扶養し、また神様への供え物をするということは、貧しい人たちにとっては負担の多いことだったのかも知れません。コルバンを盾に、両親の扶養義務を逃れようとした者たちがいて、それを許容し、ひいては加担することにもなっている。右の事が立てば左が立たない、両立することが難しいということなのかもしれませんが、しかしそこに卑屈な思い、醜い心の姿も顔を出しています。逆立ちをした姿が垣間見られ、それは言い伝えに固執するものの姿であるというのであります。

ここでちょっと立ち止まりまして、ひとつのことをお話しさせて頂きたいと思います。それは聖書の研究者たちが、注意を喚起していることであります。主イエスが非難し、象徴的にお語りになる聖書に描かれているパリサイ派の人々の姿は、いささか誇張されているということであります。前におりました教会で、もう天に召されましたが、年配の一人のご婦人がおられまして、そのご主人の社会的お立場によることなのですが、ユダヤ人の方々、いわばパリサイ派の流れを汲む方々と長く交流を持っておられました。牧師が新約聖書の中に出てくるパリサイ派の人々のことを聖書が語っているように、そして時にはさらにそれをデフォルメして語ってしまうことがあるのでありますが、その時、必ず礼拝の後で、そっと小さな声でユダヤ人の方々はそのような人たちではありませんと、おっしゃるのであります。新約聖書の時代のパリサイ派の人々もここに描かれているような見事な偽善者などではなかった、却って戒めを守る時、その心を最も大切にしたのは彼らであったし、かの人々以上に神様の戒めを行うことに熱心で誠実な者はいなかった、神と人とに誠実であろうとした、ということであります。それですから、すべてのパリサイ派に人々がここに記されている主イエスの言葉に親しみを覚え、行為をもって理解することができた、うなづいたにちがいないと思うのであります。そういう姿を、今お話したご婦人はご自分の接するユダヤ人の方々の中に見ておられたのだろうと思います。ですから、もしも私達がパリサイ派の人々のことを聖書で読みまして、かの人々を簡単に軽蔑してはならないし、偽善者だと烙印を押して、自分はそれとは違うのだと、喜んでいてはならないと思うのであります。ましてや自分の行いが不十分であったとしても心が清ければよいのだと、傲慢な思いとなり、自分はあのパリサイ派の人々のようでなくてよかったと慢心してはならないということであります。もし、そんなことを思っているならばかの人々の真剣さの前に裁かれ恥じることになるでありましょう。

話を戻します。主イエスはこのようにして昔からの言い伝え、清めの儀式を無意味なものとしれ、パリサイ派の人々や律法学者の質問を退けられたのであります。そして人々にお語りになります。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」(新約聖書マルコによる福音書7章14節)食べるもので汚れているものはなにもない。食べるもので汚れているとか汚れていないとかという定めのことを「食物規定」と申しますけれども、その食物規定を回避なさっているのであります。そして人を汚すものがあるとすれば、それは人の中から出てくるのだと、仰せになったのであります。このイエス様の言葉を人々はすぐには理解することができなかったようであります。弟子たちも同様でありました。そこで弟子たちは群衆から離れて、家の中にイエスがお入りになると、その意味を尋ねたというのであります。イエス様がお答えになりました。18節であります。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」わかりにくいところがあります。そして日本語の聖書は上品に翻訳しておりますが、腹の中に入り外に出されるというのは、文字通りには厠(かわや;トイレのこと)に出されるということであります。外からくるもの、私達が食べるものは消化されて出て行く、出てきたものは自然の循環と申しますか、有用なものに用いられる、それは決して汚れていない、有用に用いられるとすれば、それらはすべて神様によって用いられている、神様のものである。清められるというのはそのようなことを言っているのでありましょう。もしかしたら、イエス様は少し笑いながら、これをお語りになったのではないでしょうか。そして続けてこう言われました。20節であります。「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」そう仰せになったというのであります。考えてみますと、そとからくるものによって自分が汚れると考えるのは、自分の心が清いと思い定めているからでありましょう。自分は清いと思う人は汚れているものを外に見ようとします。そして高い壁を作り上げます。パリサイ派の人々の偽善はそこにあったのであります。彼らの真面目さ、神の前に喜ばれようとする熱心、清いことを追求する真剣さは、この一点において主イエスの非難の対象とされるのであります。

私達は自分の心の中をちゃんと覗くことはできません。醜いものは目隠しをして見えないようにし、あるいは蓋をし、そして美しく自分を思い描くのではないかと思います。それでも時々、悪しき思いに深く沈んでいることに気付かされることがあります。無意識の中にかくれているものが、時に顔をだすからであります。主イエス・キリストははっきりと言われるのであります。「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。」この言葉に続きまして、悪しき事柄についてのリスト「悪徳表」と呼びますけれども、新約聖書の中に何箇所か、同じような表が出ていますが、その一つ一つについては、お話する必要はないと思います。しかしながら、ここで主イエスは一度も、こころを清めよ、とはお命じになっていない、そのことは心に留めなければならないと思うのであります。心を覗いて見るようにということ、そして中から、人間の心から悪い思いが出てくる、ただそう言われたのだということを記憶に留めたいと思うのであります。それで、神の恵み、キリストにあってはそのままで神の前に立つということ、神のものとされていることを知る、主イエス・キリストはユーモアに包んで、そのことをお諭しになっているのだと思うのです。

汚れについての論争が、神様の恵みにその御前に立つ、深き主の憐れみを思い起こさせる、そしてその恵みに立つことを教える言葉となっています。主イエス・キリストはユーモアに包んで、そのことをお諭しになったのであります。

<お祈りを捧げます。>天の父なる神様、私達が時々、勘違いいたしますように、あなたの御前に清くなければならないと思い定め、あるいは傲慢に自分は清いものだと思って、自分の外にあるものが不快になり、厚く高い壁を建てるのであります。しかし、イエスキリストは、神様の恵みにあっては、私たち、その正直な姿のままで神様の前に立ち、神様のものとされている、清いものとして下さっているということをお諭し下さいました。どうか、その恵みを深く思い、神様を喜び、また、互いに深く愛し合うものとならせて下さい。感謝と願いを主イエスキリストの御名によって御前に捧げます。アーメン

 

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