2015年5月24日 聖霊降臨主日礼拝

聖書 ガラテヤの信徒への手紙 5章16-26節

説教 歩く、生きる、実を結ぶ

今日は精霊降臨日、ペンテコステです。世界中の教会で特別にお祝いをする日曜日が一年に3回あります。ひとつはクリスマス、イエス・キリストがお生まれになりました。ふたつめはイースターです。十字架にお掛かりになったイエス様がお蘇りになった復活祭です。みっつめが今日の聖霊降臨日です。天にあげられたイエス様が父なる神様と共に、私達のために精霊をお与えになりました。これによって私達が神様の愛とイエス様の恵みを知ることとなり、神様の子供として祝福されることになりました。

使徒言行録にこんなことがあったと書かれています。聖霊降臨日の前後のことです。それによると復活されたイエス様は弟子たちをエルサレムにお集めになりました。そして大切な約束をお与えになったのちに天に上げられ父なる神様のもとにおられることとなりました。イエス様を天に送った弟子たちは祈りながら約束が実現するのを待ちました。そして五旬祭と呼ばれる祭りを迎えることになりました。五旬祭とはユダヤの大きな祭りです。有名な過超の祭り、この祭りの折にイエス様は十字架にお架かりになり三日目にお蘇りになりましたが、その過超の祭りから数えて50日目にあたる、それで五旬祭と呼ばれます。ペンテコステというのは、50日目を意味するギリシャ語であります。この日には、世界各地に散らばっている、ディアスポラのユダヤ人たちもエルサレムに集まりました。弟子たちはというと、この日も祈るために集まっていました。ところが突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、家中に響きました。大きな音だったようであります。さらに炎のような舌がわかれわかれに現れてひとりひとりの上に留まりました。聖霊がそのようにして弟子たちに下ったのであります。人間存在のすべてを揺るがすような出来事、この不思議な光景は聖霊降臨が驚くべき奇蹟であったことを伝えています。神の業であったということであります。聖霊は祈りの家に満ち、そこに集められている一人一人の上にとどまります。すると一同は聖霊に満たされ、聖霊が語らせるままに他の国々の言葉で話し出したと言うのであります。主の復活の証人として、神の大きな働き、御技について語り始めました。こうして、エルサレムの国に来ていた世界中の人に向かって神様とイエス様のこと、福音を宣べ伝え始めたのであります。ここに教会が誕生します。これが聖霊降臨日の様子であります。

先ほど、ガラテヤの信徒への手紙の5章をお読みいたしました。16節に「霊の導きに従って歩きなさい」と書かれています。霊というのはもちろん聖霊のことです。天におられる父なる神と、御子イエスキリストから送られて私たちの間に来て下さった神様、神の霊であります。目に見えませんが私たちの内においで下さいます。そして私たちを導いて下さいます。私たちの信仰と生活とはこの聖霊の導きの下にあります。それで聖書は、聖霊の導きによって歩みなさいと勧めているのであります。オランダという国にファンデューラーという人がいます。その人は学者で教会の教えを研究する人であります。神学者と呼びます。この人が印象深い言葉で、聖霊について説明してくれているのであります。こういう言葉です。聖霊は自分を隠す神である、自分を隠す神、それが聖霊である、というのです。自分を隠すというのは私たちの外におられるのではなくて、私たちの外から来て、私たちの内に棲まわれる、ということです。私たちの奥深くに棲まわれる、それで隠れてしまうというのであります。混ざり合ってしまうとさえ表現しています。そのようにして身を隠すため、混ざり合ってしまう、 といっても私たちが聖霊になるわけではありませんし、聖霊が私たちになるわけではありません。聖霊と私たちとは永遠にふたつです。ふたつではあり続けますが、私たちの内に確かにお棲みになるというのであります。それは私たちの心の中にというだけではありません。おそらく神はそうなさるでありましょうが、聖書を読みますととくに体のことが記録されているということがわかります。キリストの体、教会であります。目に見える地上の教会にも棲まわれます。それで教会は聖霊の宮と呼ばれます。そこから様々な民族、様々な文化の中へと聖霊のお働きがなされています。福音が宣べ伝えられます。父なる神様の愛と、イエス様の恵みとが知られていくのであります。そしてそのお働きがなされる時に、聖霊はご自分が誉れをうけることをお望みになります。栄誉を求めることではありません。私たちが私たちの救い主、主イエスキリストを褒め讃え、主イエスが誉れを受けるときに、聖霊はそれを喜びとされるのであります。

先ほどお読みしたガラテヤの信徒への手紙5章には、聖霊の導きに従って歩み生活し生きる人は豊かな実を結ぶことになると書かれていました。22節ですが「これに対して霊の結ぶ実は、愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。良い木が良い実を結ぶように、霊の導きに従って歩むならば、このような実を結ぶのだ、と記されています。聖霊はそのとき、すなわち私たちに、愛と喜びと平和という実を実らせ、それによって私たちが祝福を受けることを喜んで下さる、というのです。このようにして聖霊は自分を隠す神でいらっしゃる、そう、教えたのであります。 今日は聖霊降臨日です。聖霊が与えられた日であります。天におられる父なる神様、そして私たちの救い主でいらっしゃるイエスキリストから聖霊が遣わされて私たちのところに来て下さいました。そして、私たちの内にお棲みになり私たちを導いておられます。父、子、聖霊、三人の神様がもちろん、おられるのではありません。神様はお一人です。そのお一人の神様が、父なる神様、御子イエスキリスト、聖霊でいらっしゃるのであります。それですから、霊の導き、聖霊の導きとは、父なる神様の愛の働きかけです。愛の御手であります。御子イエスキリストの恵みを私たちに悟らせ、届けて下さるのであります。そのようにして私たちを父なる神様とイエスキリスト、その恵みに結んで下さいます。5節の前半に、1節から15節には、キリスト者に与えられている自由ということが語られています。その自由というのは愛によって互いに仕え合うことができると、そしてその愛に手を、身を伸ばして行くことができる、そういう自由です。この自由を生きるということが、聖霊の導きに従って歩む生活であるということに他なりません。ですから16節で、霊の導きに従って歩きなさい、歩みなさいと勧められています。私たちは愚かで弱く見にくいところがあります。改めて声を大きくしてそれを言う必要もないことでありましょう。罪にまみれています。聖書の言葉では、肉の欲望と記されています。しかし、聖霊の導きにある人は、その弱さと罪が、イエス様の十字架の下に引き取られている、十字架に付けられてしまって、全く力のないものとなっている。そして聖霊が私たちを導いて下さり、22節にあるように愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制という実を結ぶようになる、そう語られているのであります。愛、喜び、平和、その後に、寛容とありますけれども、これは大きな心という意味です。聖霊は私たちの心を大きくしてくれるというのであります。それは神様の国を待つ心です。神様の御国が来ますようにと祈りながら、どんなにつらいことがあっても、悲しいことがあっても、心がしぼんでしまわないように、神様の御手と御国とを待つ、大きな心をあたえてくださるのだと言うのであります。この言葉は、忍耐というふうに訳されることもあります。忍耐する力、大きな心であります。私は、全く忍耐強くないのであります。我慢できないたちと言ったらいいと思いますが、しかし大きな心を与えて頂きたいと思っています。心の大きな人は、親切な人でもありましょう。思いやることができるのでありましょう。そして、善意、よい思いをもって、他者に接することができましょう。それ故に誠実で誠を尽くすものとなりましょう。また、優しく、自分をコントロールする、節制することにもなりましょう。今日はこの後、サンドイッチ会がありまして、教会学校の先生方、お手伝い頂いた方々がサンドイッチを用意して下さっておりますが、何人来られるかわからないということで、量が足りるかどうかということで家内が心配しておりました(^0^)。あなたは我慢しなさい(^0^ + ^0^)、そう言われているのですが、なかなか我慢すること、節制することが難しい、しかしながら、聖霊に導かれるならば、神様の愛と喜びと平和に包まれて寛容、大きな心を与えられる、というのであります。聖霊の結ぶ実はたくさんあって、豊かな広がりがありましが、ひとつの結びつきを形作っていることがわかります。それは神様の愛、という冠を頂いているということであります。そして25節には、霊の導きに従って生きていくなら、霊の導きに従って前進しましょうと書かれています。前進するというのは、勝利の凱旋、勝利の興奮に加わって歩むということであります。主イエスキリストによって、与えられた勝利があって、そして勝利の凱旋に連なって歩んで行くということを勧めているのであります。今日は聖霊降臨日です。聖霊は自分を隠す神でいらっしゃいます。私たちの外におられるのではなくて、外から来て私たちの内に棲まわれます。私たちの奥深くに棲まわれます。私たちの心の中に、というだけではありません。教会を住まいとされます。そして、そこから様々な民族、様々な文化の中へと 聖霊のお働きがなされて行きます。福音が宣べ伝えられて参ります。そのお働きがなされるとき、聖霊は、ご自分が誉れを受けることをお望みになります。私たちが私たちの救い主、イエスキリストを褒め讃え、主イエスが誉れをうけることを喜びとされるのであります。また、私たちに豊かな実を結んで下さいますが、私たちが祝福を受けるとき、それを喜んで下さるのであります。自分を隠す神でいらっしゃいます。聖霊降臨日を共に感謝し、喜びたいと思います。<お祈りを捧げます。>

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です