復活節第二主日

不信の信

聖書箇所:マルコによる福音書16章9-20節

9 イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。10 マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。11しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。12その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現された。13この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった。14その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。15それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。

説教要旨

9節に、「イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアにご自身を現された。」と記されています。12節にも、田舎のほうへ歩いて行く途中の二人の弟子に、主イエスはご自身を現された、と書かれており、14節では、11人の弟子たちにご自身を現されます。このように復活の主イエスが人々にご自身を現されたということが強調されており、その三つの場面が綴られています。

[マリアに現れた]

最初は、マグダラのマリアに主は現れなさいました。このマリアは、最初に空っぽの墓に駆けつけて、天の使いから復活の知らせを聞いた女性です。しかし、その時は、おののき恐れながら墓から逃げ去ったのでした。しかし、ここで主イエスの現れに接して、彼女ははじめて、恐れではなく喜びを与えられました。主が生きてご自分を現してくださる、これほど確かなよみがえりの事実はありません。


このマリアは、かつて、主イエスに7つの悪霊を追い出していただいた女性です。心も身体もぼろぼろだった彼女のところに主は赴かれたのでした。そして今は、お甦りになって、最初にこのマリアに現れてくださいました。そして、お遣わしになります。

「イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいる所に行って、それを知らせた」とあります。弟子たちのことです。泣き悲しんでいたのは、ただ主の死を嘆き悲しんでいたというのではありません。主を裏切り、見捨て、一緒になって十字架にかけたも同然の自らの罪を深く思って、泣き悲しんでいたのでありました。ところが、彼らは、彼女の言うことを聞いたけれども、信じなかった、そう記されています。

[二人の弟子に現れた]

二人の弟子とは、ルカ福音書24章に記されているエマオへと向かっていた弟子のことでありましょう。

「ちがった姿で」とあります。マリアへの場合と違ったということでしょうか、それとも、イエスさまとはすぐに分からないお姿で、ということでしょうか。いずれにしても、すぐに、主であるということに気がつかなかったのですが、この二人も、他の弟子たちのところに遣わされます。

[他の弟子たちに現れた]

14節以下に、三番目の、そして最後の、主の現れの場面が記されています。主はご自分を現すや否や、彼らの不信仰と、心のかたくななことを、おとがめになりました。

「おとがめになった」という言葉は、非常に強い言い方です。この言葉は、主イエスと一緒に十字架につけられた犯罪人がイエスをののしったということが記されていましたが、ののしる、という意味でも用いられます。非常に強い、厳しい言葉。

11人の弟子たちは、そのようにみな不信仰であった、というのです。しかし、主イエスはここで、マリアとあの二人の弟子に対してと同じように、主の復活を告げる証人として彼らをお立てになり、全世界にお遣わしになるのでした。まことに、思いがけない、驚くべき事が、ここには書かれている、と思います。

[信じることができない者の信仰]

私たちは、私たちに語られる言葉によって、生けるキリストに出会うことが許されています。キリストを、紹介する人の言葉に、信頼することが求められます。信じるというのは、見たから信じるというものではありません。証拠を手にして、納得して受け入れるというのは、信じるということではありません。宣べ伝えられた福音を信頼するということです。じつにそのことをお前たちは軽んじたと、主イエスは叱責なさったのです。遣わされた者の言葉を信頼しなかったと、彼れらは主にとがめられたのです。

驚くべきこととは、その彼らが今主の証人とされようとしているということです不信仰きわまりない者に、主は、突如として、全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ、と命じられたのでした。

まことに、思いがけないことが、ここに書かれています。人は、まず自らの不信仰を悔い改め、心を入れ替えて、信仰を堅く持って、伝道へと遣わされるというのではありませんでした。不信仰な者である、そのままに、主のご命令に従ったのでした。

考えてみると、私たちの不信仰は、私たち自身で何とかできるというものではありません。もしそれが可能なら、立派な人間になってそれから主に従ったらよいでありましょう。しかし事情はそうではありません。私たちの不信仰は、主のよみがえりによって、主において、はじめて、乗り越えられる、乗り越えられたのでした。そこにしか私たちの不信仰を癒すものはありません。それを受け入れるところにしか、私たちの不信仰からの救いもないと言わなければなりません。主が、われに従えとお命じになります。それで、その主の招きにお従いするのです。そのことを感謝するのであります。

不信仰のままで、しかし、自らの不信仰に固執し、しがみつくことをしないで、主のお言葉にただ従ったのでした。


復活の主のもとに、わたしたちの信仰の基があります。マルコによる福音書は、このような招きを、だれもが受けているということを伝えているように思います。
招いたお方が責任をもっていてくださり、この方は私たちのことを理解していてくださり、それだけではない、見込んでもいてくださる。主が、私たちに身を向け、私たちに現れ、私たちに出会ってくださることにおいてです。

[伝道への派遣]

「全世界にいって、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」と主はお命じになります。
福音とは、主イエス・キリストがお甦りになって、全世界の、そしてすべての造られたものの主となられた、主でいましたもうということです。キリストこそ、そのように、主であることが明らかにされたとき、人はみな、この主をほめたたえるほかありません。

すべての造られたものの中で、すべての造られたものによって主がほめたたえられるために、先んじて、一切のものの、いわば口となり声となって、主をほめたたえる、それが、教会に許され託された光栄あるつとめです。

主は、お甦りになりました。父なる神が主イエスを死と罪に勝利した者として復活させられたのです。罪と死の支配を打ち破り、新しい命を与え、不信仰な弟子たちを召して、お遣わしになります。そして、私たちの言葉を祝福して、主を讃美し、証しする者となさいます。