聖霊降臨節第6主日

いのちの香り

聖書箇所:コリントの信徒への手紙二2章12-17節

12わたしは、キリストの福音を伝えるためにトロアスに行ったとき、主によってわたしのために門が開かれていましたが、13兄弟テトスに会えなかったので、不安の心を抱いたまま人々に別れを告げて、マケドニア州に出発しました。14神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。15救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。16滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。このような務めにだれがふさわしいでしょうか。17わたしたちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています。

説教要約

(説教全文をここでご覧になれます)

今日の聖書には、わたしたちが「キリストの香り」である、と書かれています。

使徒パウロは、「キリストを知る知識の香り」と言っています。もちろん、ここではパウロ自身のことが語られています。御言葉を宣べ伝える務めに立てられている伝道者としてのパウロのことが記されているのですが、それは、伝道者のみならず、すべてのキリスト者にあてはまることでありましょう。良き香りとして、わたしたちはキリストにお仕えしている。それが、ここに記されている信仰です。

それでは、具体的に、わたしたちはどのような香りなのでしょうか。
ここには、二つの香りのことが書かれています。
一つは、凱旋の香りです。そして、もう一つは礼拝のささげものの香りです。

[凱旋の香り]

凱旋の香りについては、14節に「神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識を香りを漂わせてくださいます。」と記されています。
おそらく、その香りは強い香りで、非常にこうばしかった、のではないかと思います。なぜかと申しますと、戦争から帰ってきた兵士たち、捕虜たちは、それとは違ってすごい臭いを発していただろうと思われるからです。
傷ついた人たち、泥まみれになって歩かされてきたおびただしい捕虜たち、が発する匂いです。
ですから、凱旋のときにたかれた香は、それらの臭いを打ち負かして、良い香りが町をおおうようにと、非常に強い、かんばしい香りが炊かれたのではないかと思います。
それが、勝利を祝う香りです。

この凱旋行進ですが、パウロはその時、どのような姿でキリストの勝利の凱旋に連なっていると考えていたでしょうか。
古くから、教会が読み取ってきたのは、行進の一番最後に、連れられてくる捕虜です。捕虜の列の中に、パウロは自分を見ていたのです。

これはよく分かる譬えではないかと思います。わたしたちの信仰生活というのは、キリストにうち負かされる生活です。キリストの恵みが、わたしたちを圧倒してくださる。わたしたちは思いがけないキリストの恵みを知らされて、その恵みに圧倒されて、いわば降伏しているのです。そこに、信仰生活が生じております。

キリストの勝利の凱旋に捕虜として連なる、それがわたしたちでありましょう。ところが、ふつうは捕虜というと、惨めな運命が待っているわけでありますが、パウロが語りますのは、キリストの凱旋行軍です。この世の戦争の話ではありません。

この世の戦争の話なら、ただ惨めな話です。しかし、使徒パウロが語ろうとしているのは、キリストの凱旋のことです。
この凱旋においては、最後の捕虜たちをつないでいるのは、鉄の鎖でも、木で作った足かせでもありません。キリストの恵みであります。そして、キリストの捕虜には、まことの自由が待ち受けているのであります。

悪臭を放つような捕虜たち、しかし、キリストの勝利の凱旋に伴われて、そこでは芳しい香りとなって、キリストの勝利を知らせる。「神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識を香りを漂わせてくださいます。」そう聖書は記します。

[礼拝のささげものの香り]

もう一つの香り、それは礼拝でささげられる香りです。15節をご覧下さし。こう記されています。「救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。」
昔、聖書の人々は、色々な礼拝の方法を知っていました。一番よく知られ、行われていた礼拝の方法に、「焼きつくすささげもの」の礼拝、あるいは「宥めの香り」と呼ばれる礼拝がありました。以前に用いていた口語訳聖書では「はん祭」という難しい言葉が用いられていました。
牛や、羊や、山羊などを祭壇で焼きます。その全部を焼きますから「焼き尽くすささげもの」と呼ばれます。
動物を祭壇で焼きますと、そこには香ばしい香りが立ち昇ります。その香りは天にとどいて、神がそれを喜んでくださる。その香りによって、神の心をなごませることができる、そう信じたのであります。それで、「宥めの香り」とも呼ばれます。

今日は、礼拝の後でダニエル会があります。創世記を一度で学ぶということになっています。
その創世記にノアの洪水の物語があります。最近、映画化されて少し話題になっていますが、その洪水物語の中に、洪水がおさまり、陸地があらわれて箱船から降りてきたノアとその家族とは、まず最初に「宥めの香り」「焼き尽くすささげもの」をもって神を礼拝した、と書かれています。
それは、感謝の礼拝でもあります。感謝をささげて神に喜んでいただこうと、ささげられました。

礼拝にあずかり、礼拝から礼拝へと向かう信仰の生活を守っている、そのことが、神に喜ばれる香りであり、また、キリストを伝える香りともなっている。そう御言葉は語っています。

使徒パウロは、ここで、しかし、注意深くわたしたちはキリストによって神にささげられる良い香りです、と述べています。
わたしたち自身が感謝のささげもの、信仰のささげものであり、神にささげられる香ばしい香りです。しかし、その香りは、キリストによってささげられている。キリストを通してささげられる香りであるということです。
エフェソの信徒への手紙5章2節に、このような言葉が記されています。「キリストがわたしたちを愛して、ご自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩きなさい。」。
この言葉は、キリストご自身が、わたしたちのための宥めの香りであって、わたしたちが愛によって歩むようにと神に献げられた供え物である、と語っています。

聖書の時代の人々の礼拝も、わたしたちの礼拝も、人間のささげる礼拝は不完全なものでありましょう。しかし、キリストがささげる礼拝はどうでしょうか。それこそ神が喜ばれるまったき礼拝であるにちがいありません。
そのような完全な礼拝があるというのです。そして、その礼拝に、私たちは結ばれているのです。

良い香りがささげられました。キリストです。そのキリストの香りにのせて、わたしたちも自分をささげることができる。良い香りとして神に喜んでいただけるのである。
その礼拝にあずかって、わたしたちは「キリストの香り」を放っている。

17節を見ますと、パウロは伝道者、神の言葉に仕える者として、「多くの人々のように神の言葉を売り物にせず」と言っています。まるで、調理人のように、神の言葉を自分の手で料理して、それを切り売りする。そんな、商売人のように神の言葉に仕えるのではなくて、神の言葉、福音に自分自身がうち負かされ、キリストを心から愛する、神の言葉を慕う者として、ただキリストに生かされ、キリストに持ち運ばれて伝道者の務めに立たされている、そう記しています。

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