2015年8月16日聖霊降臨後第11主日礼拝説教

聖書 マルコによる福音書 9章30-37節

説教 子どもを受け入れる信仰

36節をご覧下さい。主イエスはひとりの子供の手を取って弟子たちの真ん中に立たせ抱き上げて、「私の名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は私を受け入れるのである。私を受け入れる者は私ではなく私をお遣わしになった方を受け入れるのであると仰せになった」と書いてあります。それで今日の説教題を「子どもを受け入れる信仰」と致しました。

受け入れるという言葉ですが、これは喜んで迎える、という意味の言葉です。子どもを抱き上げる、小さな子どもを抱き上げるときに喜びを感じます。また抱き上げられた子どももうれしく喜ぶのではないかと思います。そのように喜んで迎える、それが受け入れるという言葉です。「わたしの名のためにこのようなこどもの一人を受け入れる者はわたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」そう主は言われたのでありました。今日はこの主のお言葉を心に留めて、神様を讃美したいと思います。

このお言葉は31節に記されていますけれども、主イエスが「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」そうおっしゃった、二度目になりますけれども、ご自分の死と復活について予告された言葉が記録されてその後で語られています。この言葉については後でお話しますけれども、この二度目の予告の言葉をですね、先に読みました主イエスキリストのお言葉は解き明かしている言葉なのだと思います。ところが弟子たちはと申しますと、その二度目の予告の言葉に戸惑い、思い違いをしたようであります。弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかったと書かれています。弟子たちは自分たちで、自分たちの思いの中でその意味を探り議論を始めたのでありましょう。そしてついにはだれがいちばん偉いのか、ということにその議論は集約されたのであります。偉いという言葉は、文字通りには大きいという言葉であります。弟子たちのこの議論は主イエスが自分たちを約束の担い手としてお立てになったという自覚から生じているように思われます。主が御受難と十字架と復活のことについてお語りになった時、弟子たちはそのときが来た、み国が来るのだ、そう思ってそしてそのみ国を継ぐ者として主イエスキリストは自分たちをお集めになったと、そう深く自覚したのだと思います。それは誠に大きな光栄であります。

だれがいちばん偉いのか、という問いは、いかにも子どもっぽいようではありますけれども、私たちにも身近な問いとなって時々、現れてくるのではないかと思います。私たちの思いの中に繰り返し引き起こされる問いでもあります。信仰を与えられるということは決して小さなことではないからであります。しかしそれがどのような誉(ほまれ)であるのか、よくわからないままにその大きさを思うのであります。そしてそれにふさわしくお答えしなければならないと、誰もが考えるのではないかと思うのであります。イエス様の名を汚してはならないし、イエス様の名が高められるように、私たちも大いなるものにならなければならない、そう思うのであります。しかしながら、主は弟子たちを戒め大切なことを、そして喜ばしいことをお話になったのであります。

35節に「イエスが座り」と記されてあります。座って教える、というのは大切なことを伝えるときの姿勢であります。そして弟子たちも座り改まってその教えに学ぶのであります。主イエスキリストは語られたのでありました。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」私を愛し、私の名を高めると言うのなら、この子どもに目を留めなさい。私はこの子どもを喜んで抱き上げ、その事を受け入れなさい。その時、あなた方は父のみ国を嗣ぐ者、祝福されている者、約束の民である者、と仰せになったのであります。子どもとかかれていますが他の福音書では、幼子(おさなご)とも記されています。口語訳聖書はそう訳しておりまして、真に小さい者ということであります。昔、イスラエルだけではなくて周辺の世界でも小さなこどもには権利というものがなくて、取るに足らない存在とされていました。

子どもと言えば今日の箇所のすぐ前、先々週読みましたけれども、一人の子どものことが書かれていました。汚れた霊に取り憑かれたかわいそうな子供です。その子は父親の手に引かれて来なければ、主イエスのもとに来ることはありませんでした。自分では何も為しえないのでありました。それも子どもであります。主イエスはそのような子どもの手を取って、弟子たちの真ん中に立たせ抱き上げて言われたのでありました。この主のお言葉はさっきの主の復活を予告する言葉を解き明かしています。受難の予告とも言われますけれども、この箇所がはじめてではありません。最初の予告が8章に記されています。ペテロがあなたこそメシアです、と告白したすぐ後のことでした。そして今回が二度目になります。繰り返してこの言葉がマルコによる福音書に記されるのであります。なぜ繰り返して記されるのか、大切なこと、重要なことだからでありましょう。また、繰り返し、繰り返し聞くことによって、私たちはその意味を悟っていくことになったのでありましょう。この二つ目の言葉は、その意味では最初の言葉とはいささか違った言い方がなされています。お気づきかと思いますが、最初の予告では、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて」(マルコによる福音書8章31節)となっていました。当時のイスラエルの指導者たちの手によって十字架へと引き渡されると語られていたのであります。しかし、この2度目の言葉は「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。」となっております。(マルコによる福音書9章31節)主は、十字架に渡されるのは人々の手によってであったと言うのであります。長老、祭司長、律法学者たちと言うのであれば、他人事のように感じますけれども、人々の手によってとなれば、もはや他人事では済まされなくなります。弟子たちの手もそこに数えられているということになるのではないかと思います。そしてこの、人々の手によって引き渡されるという言葉は印象深く受け身(受動態)で語られています。そうさせられてしまう、そして主はそれをお受けになるということであります。この受動態で語られる言葉でありますけれども、深い意味を含んでいるように思われます。それはそこに神の御手の働きを見ているということであります。十字架にイエス様を渡すのは目に見える限りによっては人々の手によってであります。しかし事の真相はそれだけではなくて、本当には天の父なる神様の御手によってということが、この渡されるという言葉に含まれている意味のようであります。人々は自分たちの手によって主を十字架に渡したと思っているかも知れないけれども、実はその人々の手を用いて神が主を十字架に渡した、しかもそれによってその人々を救い、その罪を許される。それが引き渡されるという受け身形、受動態で語られている意味であります。ですからキリストの受難と死と復活において、人間の罪の仕業(しわざ)が神の御手の働きの中に包みこまれ、巻き込まれてしまう、人の仕業、罪が包み込まれて貴い救いの御技(みわざ)が成される、そのことによって罪人が神に受け入れられる、神の愛するひとり子、イエスキリストによって為されたことはそのことであったと語っているのだと思います。

イザヤ書53章というところに「苦難の僕(しもべ)」と呼ばれる詩が綴られています。キリストのことを謳っていたのだと理解されるようになりキリストの苦難と十字架、そして復活を預言した言葉と考えられるようになりました。こう記されています。「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように、この人は主の前に育った。見るべき面影はなく輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎(とが)のためであった。彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」この苦難の僕、神の働き人を、このイザヤ書の言葉は、主の前に萌え出た若木と呼んでいます。これは小さな子ども、幼子という意味を持つ言葉でもあります。実際、旧約聖書がギリシャ語に翻訳されたとき、幼子と翻訳されたのでありました。ギリシャ語の翻訳というのは、七十人訳と呼ばれるもので、紀元前一世紀の初めに翻訳されたものです。主イエスの時代の人々はこの七十人訳ギリシャ語聖書を知っており親しんでおりました。苦難の僕、それは主の前にあえぐ幼子、小さき者であるというのであります。この苦難の僕を懐に抱くようにして喜ぶ。主イエスキリストがこのような子どもの一人を受け入れるものは、と仰せになったときにイザヤ書の苦難の僕をそこに重ねておられたのではないかと思うのであります。子ども、幼子を受け入れるものはキリストを受け入れるのである、キリストを受け入れるものは愛するひとり子を十字架に渡した天の父を受け入れるのである、そして父なる神は幼子の故に喜び、そして私たちを受け入れて下さったのだというのであります。

信仰生活は喜びをもってキリストを迎え、父なる神を迎えるところの生活であります。私たちがまず受け入れられるのであります。神様が愛するひとり子を十字架に渡し、その苦難と死を通して罪深い私たちを喜んで迎えて下さったのであります。その恵みのうちに私たちは主の前に歩むのであります。

宗教改革者のルターという人が残した言葉が記憶されております。「人間性はその最も良き高貴なもの、そのすべてをもってしても人は神の前に義とされることはない。ただキリストによる、キリストを信じる信仰によるのである。」そしてこんな言葉を加えているのであります。信仰心のあつい事、敬虔な事、愛があること、それらが人間の義とされるために少しでも必要だと思い始めているとしたら、それは不信仰である。これらのことは普通は信仰深いこととして受け止められるのではないでありましょうか。そして、私たちも大切な事として心に認めます。しかし、ルターは人が義とされるために、それが少しでも必要だと思い始めるのなら、それは不信仰だとはっきり言うのであります。不信仰というのは、キリストの恵みを知らないでいる、喜ぶことができないでそれを無にしているということであります。そうであるならば、信仰とは自分の中に持っている自分のよりどころが、小さくなり、小さくなっていくと言うことができましょう。そしてついには神の恵みによって、それが、ふっと吹き飛ばされる、そのようにして神の憐れみと恵みが大きく思われてくる、喜びとなる、それが信仰であります。神の国、天国は私どもが高く昇っていく所にあるのではないのかも知れません。キリストが小さいものとなって下さり、そして私どももキリストと共に深く低く下っていく、その先に(何が?)あるのだと思います。主イエスキリストは、私の名のためにこのような子どもを受けいれるものは私を受け入れるのである。私を受け入れるものは私をお遣わしになった方を受け入れるのであると仰せになりました。<お祈りを捧げます>

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