2015年1月4日 降誕後第2主日礼拝

聖書箇所    フィリピの信徒への手紙 2章1-11節 

1そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、2同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。3何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、4めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。5互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。6キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、7かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、8へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。9このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。10こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、11すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

説教   キリスト賛歌    説教全文をここでご覧になれます

ご存知のようにクリスマスのシーズンは1月6日の公現日までです。
日本ではお正月を大々的に祝う習慣がありますから12月25日を過ぎますとクリスマスの飾りつけは片付けられ、新年を迎える装いに変わります。教会もややもするとおつきあいをするという具合です。ややもすると、というよりも私たち日本にありますキリスト者はどうしても二つの暦を持って歩むことになりますから、それもまた日本における教会が引き受けるその歩みなのかもしれません。

しかしながら教会の暦では1月6日までがクリスマスであります。その日を公言日あるいは顕現日と呼びます。公現あるいは顕現とは神様の栄光が人となられたキリストを通してこの地上に現れたということであります。キリストの御降誕によって神が私たち人類とともにおられることが明らかにされ、闇の中に光が輝いた、公現日はそのことを記念します。そしてその日は、東の博士たちが、救い主にまみえて捧げ物をし、幼子を礼拝したその日とされています。東の占星術の博士たちは闇の中に輝いた光に導かれて、星に導かれて救い主にまみえました。異邦人である博士たちは救い主を礼拝したのです。それは、諸国の民がキリストによって神様を礼拝することになる先駆けとなりました。また、この博士たちは闇の中に輝きだした光に導かれて、地上にあって神の御国へと旅するものたち、信仰者の先駆けでもありました。すなわち救い主に結ばれて諸国の民が神のもとに集うその時を待ちつつ教会が信仰の歩みを始めた、そのことが記念されるのであります。公現日は、このように神様の栄光がキリストにおいて現れた、すべての人に及ぶ救いの光が輝き始めていることを感謝し賛美し、その光のもとに歩んで行こうとする日であります。それで、クリスマスシーズンは閉じられます。クリスマスのシーズンは閉じられましてキリストの御生涯とその歩みを覚えつつ歩んでいく歩みが始まるのであります。

東京神学大学にかつて、かつてというのは私が学ぶよりもずっと以前のことでありますけれど、松田明三郎(まつだ・あけみろう)(1894-1975)先生という方がおられました。詩人でもあられたのですが「星を動かす少女」という作品を残しておられます。クリスマスのページェントにまつわる出来事を題材とした詩であります。有名な詩ですから、ご存知だと思いますが、このページェントというのは、降誕劇であります。詩はこんなふうに綴られます。

その日、日曜学校の上級性たちは、三人の博士や、牧羊者の群や、マリヤなど、それぞれ人眼につく役をふりあてられたが、一人の少女は誰も見ていない舞台の背後にかくれて星を動かす役があたりました。「お母さん、私は今夜星を動かすの。見ていて頂戴ね」、その夜、いっぱいの会衆はベツレヘムの星を動かしたものが誰であるのか気づかなかったけれど、彼女の母だけは知っていた。そこに少女のよろこびがあった。

松田明三郎さんの詩は、そのように続いているのです。この少女は、舞台で脚光を浴びることを一度は夢見たことでしょう。でも今は誰の目も期待せず、ただ自分を見つめる母親の眼差しを全身に感じながら自分に与えられた役を果たそうと一心になって星を動かしていた。また、観客席には星の動きをみながら、カーテンの陰に隠れて見えない我が子をじっと見つめていとおしむ母の姿がある、それは母と子を結ぶ命の絆です。母から子供へと流れる愛がそこにありました。信頼に根ざす喜びがあります。そして救い主の御降誕を祝うこころが供えられています。それが松田明三郎先生の詩であります。

今日は公現日直前の主日ですので、フィリピの信徒への手紙2章を読んでいただきました。この聖書の箇所は、東の国の博士たちが救い主にまみえた、その出来事を記念する時に一緒に読まれる聖書の箇所のひとつであります。殊に6節以下には、「キリスト賛歌」と呼ばれております当時の教会が歌っていた賛美歌が引用されています。キリストは神の身分でありながら、神と等しいものであることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして僕の身分になり、人間と同じものになられました。そう歌い始めています。ご自分を低くし人となられた神の御子の謙遜、慈しみが伺えます。そしてこのお方ゆえに人々は皆、神を愛するのだと歌っているのであります。心に染み入る賛美歌ではないかと思います。主イエスキリストのお姿が心に刻まれます。

「主われを愛す」という賛美歌があります。子供から大人まで広く親しまれていますが、その小さな賛美歌の中に、イエスキリストとその恵のことが余すところなく歌われていると言われています。しかも私たちの心に染み入り迫ります。今日、子供の礼拝でその賛美歌を一緒に歌いました。フィリピ書に記されているキリスト賛歌もそのような賛美歌であります。手紙の著者、パウロはこのキリスト賛歌を思い起こさせて主イエスキリストの御姿を仰ぐようにと語りかけています。

この手紙を受け取ったフィリピの教会はこの時、内部で争いを経験していたようであります。4章2節を読みますと、その争いの一端を知ることができます。「わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。」と記されています。二人の婦人の名前が記されています。この二人の婦人が、仲違いをしていたことが知られています。その二人は優れた人たちでパウロの伝道によく協力をした人たちであります。その二人が仲違いをしてしまっている、教会に暗く重い影を落としていたことでありましょう。パウロは、とても心を痛めていました。このようなことは世間でも見られますし、教会でもあることであります。別に驚くべきことのようにも思われませんが、しかし、悲しい、心を重くすることであります。大切なことは、しかし、争いや分裂の危機にある教会は、どのようにしてひとつになることができるのかということでありましょう。使徒パウロは、そのために腐心しているのであります。そしてキリストを賛美するこの賛美歌に思いをむけるようにと言うのであります。キリストは、神の身分でありながら、神と等しいものであることに固執しようとはおもわず、かえって自分を無にして僕の身分になり、人間と同じものになられました。低くし、人となられた神の御子の謙遜、慈しみを覚えるようにということであります。星を動かした少女のように神様の御心に仕える心を与えられて、主イエスのへりくだり、謙遜が記念されほめ讃えられている、そのほめ讃える賛美歌とこころ合わせる日になります。この賛歌の前半では、今申しましたように主イエスキリストの謙遜、へりくだりが歌われています。神であられるお方が人となられた。人間として死に至るまで、しかも十字架の死に至るまでの徹底したへりくだりであったと、そう歌っています。ご自身は何の罪もないお方であられるのに、十字架に死なれ、十字架の死に至るまで従順であったと思われます。十字架が、ご自分をこの世に遣わされた父なる神の御心であったということであります。その御心とともに、御子はその御生涯を歩み通された、神様の独り子であられ、ご自身は何の罪も犯していないのに主イエスは父なる神様の御心に従って人間の手で捕らえられ裁かれて、十字架の死への刑に処せられてしまった。そのところまで徹底的なへりくだりに生きてくださった。このことの謙遜によって、私たちは生かされ救われている、そのことに心を留めるのであります。

けれどもキリスト賛歌は主イエスにおける神様のへりくだりのみが、語られていたのではありません。後半の9節にこのように歌われています。「このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」十字架の死に至るまでへりくだられた主イエスを父なる神様は復活させ、天に高く引きあげられた、主イエスにおいて死の力が打ち破られた、神様の恵の力が死を滅ぼして新しい命を主イエスにお与になった、そしてその主イエスは今や、天に昇って父の右に座しておられる、そう歌うのであります。神様の恵によって与えられた新しい命 この世界は、そして私たちの人生は最終の場所をえているのであります。キリストに結ばれて命の恵を共々に受け継ぐものとされている、そのことは記憶されています。主イエスキリストにおいて、神様がへりくだって人間となり、しかも十字架の死に至る道を歩み通してくださったのは、この復活の命を私たちに与えてくだったのでありました。主イエスキリストは私たちのところまで降りてきてくださり、許しを与えてくださり、そして私たちを伴って天の高みに昇ってくださっています。すなわちイエスキリストにおいて神様は私たちの弱さを知り同情してくださり、ただ、それだけではなくて、私たちを支配している罪と死を打ち破り、神様の恵のご支配を確立してくださり、そのことが歌われています。使徒パウロはフィリピの教会にこれを書き送り、人間的知恵や小手先のことではなくて、ともに主イエスキリストを見上げる、そのことをしようではないかと、そう勧めるのであります。もちろん、さまざまな知恵も必要でありましょう。しかし、何よりも父と子と精霊であられる神様の御前に立とうではないかと、言うのであります。神様の前に立つなら、何事も利己主義や虚栄心からするのではなく、へりくだって互いに相手を自分よりも優れたものと考えて、めいめい、自分のことだけでなく他人のことにも注意をはらうようになったと、そう語りかけています。そして模範として、いや、模範以上のこととして、主イエスキリストを見上げ賛美する、このキリスト賛歌に思いをむけるようにと誘うのであります。キリストを心にとめて賛美し礼拝のこころにいて、そのようにして闇の中に輝いた光に導かれていくことになります。礼拝のこころというのは主イエスキリストの御前にぬかずくこころであります。そして、キリスト賛歌を歌うこころであります。この聖書のみ言葉を心に留めて、2015年の歩みもまた、主イエスキリストとともに歩むこととなります。

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