2015年4月26日 復活節第4主日礼拝

聖書箇所    使徒言行録2章40-47節

説教  教会の祈りと伝道

まだ、ペンテコステには少し早いのですが、今日はこの後で教会総会がありますし、また祈りの教会ということを提案させて頂いておりますので、使徒言行録2章を読んで頂きました。最初の教会の様子が伝えられております。心を留めたいと思います。五旬節(ごじゅんせつ)と呼ばれるペンテコステの日であります。主イエスが約束しておられたようにエルサレムに集っていた弟子たちの上に聖霊が下りました。余計なことかも知れませんが、使徒言行録は英語では「Act(アクト)」と言います。弟子たちの行い、働きという意味です。しかし、この書名はもともと掲げられていたものではございませんで、後の時代に名付けられたものであります。

聖書の研究者は、使徒言行録というのは、使徒たちの働きというよりも福音の伝達の歴史といった方がよいのではないか、と申します。使徒たちの働き、それよりもむしろ聖霊の働きによって福音が伝えられていく、福音伝達の記録だというのであります。もちろん使徒たちが用いられました。また、教会が建てられ教会を通して福音が証しされて参りました。しの意味では使徒たちの言葉と働きといってもよいのでありますが、もっとふさわしいのは聖霊による福音の伝達の歴史であるというわけであります。弟子たちの口を通して福音が語り始められています。最初の説教はペテロによって成されました。祭りのためにエルサレムに集まってきた人々がそれを聞きました。14節から記されていますが、ペテロは旧約聖書をひもとき、神様のご計画、その救いの歴史を背景として主イエスキリストのことを語っております。十字架に架かり、復活されたイエスが神によって遣わされた神の国のメシアである、このお方によって、救いがそなえられ、神様の支配が訪れたのだと告げたのであります。そして、最後にペテロは「邪悪な時代から救われなさい」と人々に勧めたというのであります。神様の恵み深いご支配の下に、自分を満たすように、神の義と愛と平和の下で命あらしめられるようにと語りました。その日、多くの人が心打たれて洗礼をうけ、教会が誕生したというのであります。ペテロが語りました「救われなさい。」というのは不思議な言い方ではないかと思います。元の言葉も、受け身の命令形であります。人がそのために自ら進んで何かをすることができるというようなことではない、何もできない、救って頂くしかない、それが受け身形で語られていることです。にもかかわらず「救われなさい」、命令形で勧めがなされています。「自らを救いなさい、Save yourself」ではなくて、「救われなさい、Be saved」であります。この不思議な勧めの言葉は、私たちの信仰生活の土台をよく言い表しているように思われます。私たちは救いを受け取るのに、それを待つしかありません。しかしただ、当てもなく待つというのではない。救いが約束されており、既に備えられており、招かれている、神様がとらえていて下さる、救われてしまった、というのでもありません。かといって、救われるだろうというのでもありません。呼びかけ招いていて下さるお方がおられる、その呼びかけを受け入れ、救いの約束を結んで頂くのであります。そのようであれとペテロは語ったのであります。人々はペテロの勧めの言葉を受け入れました。神様に対して「アーメン」と答えたのであります。そのようにして次々と洗礼を受けました。41節によりますと、洗礼をうけたのは3000人ほどであったとあります。3000人というのは驚くべき数字であります。それが実際の数であったかどうか、少し信じがたいところでもあります。当時の洗礼は川などで水の中に体を浸したのでありました。3000人もの人がその日に洗礼を受けるということは、もしかしたら難しかったのではないかと思われる数であります。しかし、大事なことは聖霊によって驚くべきことが起こったということです。救われる人々が起こり、神の国に招かれて教会が生まれたということであります。これは3000人という人の数にもまして、不思議なこと、驚くべきことではないか、と思います。そしてこの最初の教会が、何をしていたか、どのようであったかが書かれています。日々新たに仲間が加えられていった教会、それがどのような教会であったのか。41節をご覧下さい。「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」と書かれています。ある人が、ここに記されている教会の姿というのは福音が姿と形をとったものだと言っています。福音はそれが伝えられると姿、形をもつ、というのです。それが教会である、その教会の姿がここの記されているのであるというのです。

四つの言葉が重ねられてあります。まず、使徒の教え、とあります。使徒によって語られた御言葉です。旧約聖書からキリストが説き明かされます。その教えに心を留めて熱心に学んだということでありましょう。当時はまだ新約聖書は書かれておりませんでしたので、イエス様のことについては旧約聖書から学んだのでありました。これが教会の最も重要な基礎となったことは言うまでもありません。これに関連して46節には「そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り」とも書かれています。当時はまだ教会堂もありませんし、弟子たちは自分たちこそ真のイスラエルだと信じておりましたから、エルサレム神殿で礼拝することには何の違和感も持たなかったのでありましょう。神殿に参って、そこで礼拝を捧げたというのであります。

二つ目の言葉は、相互の交わり、であります。交わりとは、コイノーニアという言葉です。お聞きになったことがおありだと思います。施しとか、援助とも訳される言葉です。実際44節以下を読みますと、「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。」とあります。貧しい信徒たちが大勢いて、互いに助け合ったのであります。そのような共同体が生まれていたことを伝えています。教会全体が神の家族として実感されたことでありましょう。他の人の窮乏を補うためにそれぞれが必要に応じて、自分の財産を処分して貧しい兄弟たちに差し出した、というのであります。もちろん強制されてではありませんでした。5章4節を読みますとそのことがわかります。それぞれの自由に任せられていたのであります。自由に任せられていたのではありますが、皆はそれをしたというのであります。

三番目は、パンを裂くことであります。これは今日の聖餐のことを思い起こしてよいものであります。あるいはまた46節には、「喜びと真心をもって一緒に食事をし」とも記されています。弟子たちが主イエスと共に食したかつてのこと、主が5000人の人々にパンを裂いて分けられたこと、徴税人レビの家での盛大な宴会など、主イエスとともに与った食事のことを思い起こしつつ、食卓を囲んだのでありましょう。よみがえりの主が今も中心にいて下さることを確信してゆわらい喜び食卓を囲んだのであります。殊にパンが裂かれるとき、それは新しい契約の食事であるということを記念したと思います。キリストの十字架の犠牲によるパンと杯によって新しい契約の民とされている、そして神の国での主と共なる食卓を待ち望みつつ、主よ、来たりませ、マラナタと祈り讃美し聖なる食卓に与ったのでありましょう。

四番目の言葉ですが、彼らは祈ることにも熱心でした。神殿に行っても自分たちの家に集まった時も、その他あらゆる機会に心を合わせて熱心に祈っていたというのであります。熱心に、あるいは一つになってと書かれています。心に残る言葉であります。熱心という言葉も、一つになってと言う言葉も同じような意味の言葉であります。少し堅い表現でありますが、固執するということであります。ひたすら祈ることに固執していた、そして祈るときに主イエスに結ばれてその恵みに堅く結びつこうとしていた。その恵みに堅く結びつく営みがそこになされていたということであります。祈りの教会ということを提唱させて頂いています。先週の週報には、私たちは主のお教え下さった主の祈りに結ばれて祈る、そして祈ることを教えられているというふうに記しました。殊に「御国がきますように、御心が天に行われるように地にも」と祈る言葉のことをとりあげさせて頂いたのであります。私たちの小さな歩みも御国に結ばれている歩みです。御心が行われる舞台であります。それですから、そのようになりますようにと、祈るのであります。すべての造られたものに福音があたえられるようにとの主の言葉に従って、私たちの祈りの課題は世界中の教会に連なっていることを覚えつつ、祈りに加わりたいのであります。

初代教会は、そのような祈りに生きたというのであります。熱心に一つになって祈ったというのであります。救われなさい、Be saved、と呼びかけられた人々は教会に加えられ、救いの約束に守られて教会はこのように御言葉を聞き、聖餐に与り、祈りつつ、また、互いに助け合いつつ、歩んだのでありました。福音はこのような教会によって証され、宣べ伝えられ広められていったと、使徒言行録は伝えています。43節には、このような教会の姿を見て、「すべての人に恐れが生じた。」と記されています。神様に対する畏敬の念が生じたということでありましょう。「使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。」とも記されています。また47節には、教会が民衆全体から好意を寄せられた、とも記されています。喜ばしい福音の調べが奏でられ、人々の心に響くようになったということが書かれているのであります。使徒言行録2章には、教会の理想的な姿が描かれているのだと言われます。純粋で、混じりけのない、生き生きとした教会の姿を確かに読み取ることができます。しかし、理想的ということは、現実にはそのままの姿は地上には見いだせないということでもありましょう。実際の教会はそうはいかない、また、まねをするわけにもいかない、あるいは何が何でも教会はこうでなければならないというのでもないと思います。そうではありますけれども、ここには教会の基本的なありようが描かれている。聖霊によって驚くべきことが起こったということです。聖霊の働きによって福音が伝えられ、救われる人々が起こり、神の国に招かれて教会が生まれている、ということです。人々は、救われなさい、との呼びかけを受け入れ、アーメンと答える、そこに教会が生まれた。人が福音を聞いてアーメンと答えるとき、この世界と歴史とは、そして人々の歩みは神の御手の働きの舞台になるのだ、ということがここには記されているのだと思います。

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