復活前第一主日

十字架

聖書箇所: ルカによる福音書 23章 39ー49 節

39十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」40すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。41我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」42そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。43するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。44既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。45太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。46イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。47百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。48見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。

説教要約:

十字架の主のお姿には、「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿も」ありません。旧約聖書に預言されていたように、人々は主を口々にののしり、あざ笑いました。ある者は、「もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」と言い、他の者は、「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と言う。一緒に十字架にかかっていた犯罪人までもが、「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と、あざけったようです。

それにしても、十字架には、どんなに激しい苦痛が伴うことでしょうか。言語に絶する、と言われます。手足を引き伸ばして釘を打たれ、体全身の重みが、そこにかかります。釘を打たれたあたりは、神経が張りめぐらされているところですから、痛みは激しく、耐え難いことだったでありましょう。ことに、釘のあたっているところは、肉が腫れてたちまち腐り始めると言われます。激しい頭痛も伴います。体力の衰えるにつれて、苦痛の度合いが高まます。発熱にひどい渇きが伴います。直射日光が、心身の苦悩を助長します。

主イエスは、しかし、これらすべての苦しみの中にあって、ご自分を十字架にかけた人たち、あざ笑う者たちのために、執り成してくださったのでした。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」

そして、主のお姿に畏敬の念をいだいた一人の犯罪人に向かっては、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」と仰せになりました。預言者イザヤの言葉のように、その打たれた傷によって、また、身に帯びた病によって、主はお癒しくださるのであります。

そして、ルカによる福音書は、昼の12時から午後3時まで、いよいよ、主が息を引き取られる、その時のことを、このように伝えてます。 「全地は暗くなり、それが3時まで続いた。太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。」

主のお受けになった苦痛、激しい痛みについては、ここでは、不思議なことですが、一言も、触れられてはいません。しかし、全地が暗くなったと記します。太陽は光を失い、と言って、その闇の深さを伝えています。

しかし、光が遮断された、この時、主イエスは、沈黙をやぶって、声をあげられました。しかも、十字架の上で、神に見捨てられ、呪われた罪人が断罪され、死ぬ場所で、「父よ、わたしの霊をみ手に委ねます」と叫ばれたのでした。

ルカによる福音書は、この言葉を、十字架上の最後の言葉として伝えています。この言葉には、全地を覆っていた暗闇、その恐れと不安とを追い払うような力強さがあり、平安が伝わってきます。

主イエスは、父なる神の御心に従い、ご自分の使命を全うし、神への信頼うちに、息を引き取られたのでありました。

ルカ福音書は、この時、相前後して起こった大切な2つのことを伝えています。

一つは、「神殿の垂れ幕が裂けた」ということです。 神殿の垂れ幕とは、最も奥深い所、至聖所の前に垂れ下がっている幕のことです。こちらとあちらを隔てている仕切り、神の側と人間の側とを区別している仕切です。 その幕が裂けたということは、誰でも、幕の中に入っていくことができるようになったということです。罪人も入って行って神にお目にかかる事ができるようになったと言うことです。十字架は、人と神との間の通行を可能にした、と聖書は伝えます。

第二のことは、百人隊長、ローマの軍隊の隊長が、もちろん異邦人ですが、「まことに、この人は正しい人であった」と告白し、人々もみな、悔いて、胸を打ちながら帰って行ったということです。 主を十字架につけ、嘲り笑った人たちが、主の十字架の前にひれ伏し神を崇めたのでありました。

他の福音書では、百人隊長の言葉は、「本当に、この人は神の子だった」となっていますが、同じ意味でありましょう。 十字架による処刑を執行する責任者。もちろん、一介の兵隊の隊長にすぎませんから、事のすべての責任の負っているわけではありませんが、しかし、主の手に釘を打ち込み、十字架に磔にするために、実際に手を染めたのは彼であり、彼の部下であります。 この百人隊長が、そう言い表したというのです。

このお方は、まことに神の子、正しい方であたれた。

ある人が、キリストの十字架のことを「逆転」と呼びました。「ひっくり返ってしまうこと」「逆転」だ、というのです。 十字架においては、この世をお裁きになる方が、裁きを受ける立場にお立ちになっておられる。 主は不正な扱いを受けることによって、正しさをお保ちになり、人間が当然いるべき場所に、主がお立ちになって、人間を神の祝福の場所に置かれる。主は苦しみを受けることによって、勝利しておられる。十字架で「逆転」が起こりました。「ひっくり返ってしまうこと」が起こりました。 それで、百人隊長は、まことに正しい人、まことに神の子、そう告白したのでありました。

「私たちは、わたしたち自身が知っているよりも、もっと多く救われています。」「もっと大きく、もっと深く、もっと確実に救われています。」イエス・キリストの十字架、その死によってわたしたちに与えられた神さまの恵み、祝福、救いは、まことに大きいのです。

主は十字架を背負い、私たちの重荷や苦悩をご自身のところに集め、私たちの重荷を担ってくださいました。 主は、私たちのために十字架で命をささげてくださり、暗闇の中で、「父よ、私の霊をみ手に委ねます」と言って息を引き取られたのでありました。 私たちの罪をご自身のものとし、私たちには赦しを、罪のゆるしを備えてくださいました。 私たちは、いつもいつも、小さく小さく理解し、考えているのかも知れません。 自分の考えの中に取り込んで小さくしている。そのために私たちは、疑ったり、ぐらついたりもする。しかし、十字架はまことに大きい。私たちの手の中には決して納まらないのです。